<「川原田」の一角にて>
●歩いた日:2022年7月14日(木)
●歩いた所
・中野:砂館、打上、寺田、内城、外城
・金沢東根:柳田、蛭川、川原田
・千屋(旧千畑町千屋):下相野
●歩いたログ(足跡)(道のり5.0km)
(以上の地図:国土地理院)
(📷011の)橋をわたるとすぐ、やや広い道に突き当り、その角に花壇が作られている。
📸012:「蛭川」の一角
左手から来たところ。花壇には色とりどりの「ベゴニア」が植えられ、きれいに手入れされている。
右手奥に、大きな屋根のどっしりとした家と古い小屋が建つ。農村ならではのたたずまいである。
ここで突然だが、地名について疑問に思っていることに触れる。
橋を渡る前に通った「柳田」、ここ「蛭川」の大字は「金沢(カネザワ)東根」(明治の立村・合併以前の「金沢東根村」)である。「根」は山の根っこ=山の麓の意と考えられる。従って、「東根」は「東にある山の麓」ということになる。そこで、「仙北平野」の「根」の付く地名を拾い上げてみると・・・。次の地図のとおりである。
ピンク色の線が市町界。
「美郷町」の「六郷」の東に「六郷東根」がある。そこは「東山(奥羽山脈)」の麓に当たるので、まさに字義通りである。上端、「大曲駅」の南西に「大曲西根」がある。「大曲」の西、「西山(出羽丘陵)」の麓にあるので、これも字義通り。
さて、疑問に思っていることは、今回歩いた「金沢東根」。「東山」の麓にあるので「東根」とはいえるかもしれないが、ここになんで「金沢」が付いているのか?。
「金沢」(明治の立村・合併時の「金沢村」、M30年には町となる)は、「美郷町」と「横手市」にまたがる地域で、「後三年の役」に登場する「金沢の柵」、中世の城があった歴史の古いところである。その「金沢」の北、旧「仙南村」、旧「六郷町」を飛び越えた旧「千畑町畑屋」に「金沢東根」がある。なぜ??。
このことについては、以前酒飲みの席で、旧「六郷町」出身のSさんと話題にしたことがある。Sさん曰く、「六郷東根辺りでは金沢の寺の檀家になっている家もあるので、金沢から北の山沿いの地域は昔から金沢と深いつながりがあったのでは・・・」。なるほど!。でも、「金沢」と「金沢東根」の間になぜ「六郷東根」があるの???。
ところで(長くなって申し訳ない)、「金沢西根」もある。「金沢」の西の方。でも、山の「根」ではなく平野のどまん中である。くどいが、「六郷西根」もある。「六郷」の西には違いないが、「六郷」からかなり離れた「雄物川」沿い、旧「大曲市藤木」にあり、ここも平坦地で「根」ではない。よく分からない。
本題に戻る。「蛭川」はかなり大きな集落で、その中を巡り歩きたいが、あまり時間がないので後日にすることにして、写真の道を奥(北)に向かう。家の間を抜け、さらに北に行ったところで振り返る。
📸013:「川原田」の一角
道奥がログ地図でも分かるように三叉路になっている。その右手の道から手前に来たところ。
道右手は「川原田」、奥の道から左手にかけては「蛭川」である。
同じ場所から行く手を望む。
(「川原田」の一角2)
道筋が三角形を描いている。右手の細い道は明らかに古い道のカケラ?である。こんな道が残されているとうれしくなる。
田んぼ中の道をしばらく北に向かい、十字路になっているところで振り返る。
📸014:「川原田」の一角3
杉木立のある家々が建ち並ぶ農村ならでは風景である。
(その5に続く)
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