ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧仙北町横堀を往く-7⑦

2024年10月05日 | 旧仙北町を往く

<歩いたところのH28年の航空写真>

●歩いた日:2024年9月4日(水)

●歩いた所

 ・板見内:一ツ森、弥兵衛谷地、大荒田、大面、荒堰、続橋、八幡堂、百目木、千刈田、長仙寺、北畑、二合田、二井関、刈又

 ・福 田:川原道下

 ・堀見内:穴沢

 ・払 田:荒堰、烏川  ※「払田」は「旧仙北町高梨」に属する。

 ・本堂城回:北館、館間 ※「本堂城回」は「旧千畑町千屋」に属する。

●歩いたログ(足跡)(道のり8.4km)

 (以上の地図:国土地理院地図に加筆)

 同じ場所(📸018)から行く手を望む。

📸018:「一ツ森公園」を望む

 こんもりと盛り上がった「一ツ森公園」。その麓の建物は「歴史民俗資料館」で、「柵の湯」は資料館の奥になる。

 右端の木立の陰に「餅の館」の白い壁がのぞいている。

 残った麦茶を飲み干し、道奥左手にある駐車場に向かって足を進める。今回は珍しく8km以上歩いた。少し疲れた。

 最後にいつものように歩いたところの航空写真をご覧いただく。まずはH28年で、「一ツ森」、「弥兵衛谷地」辺りの写真。


 
 下の方に「矢島川」、左上に「川口川」が写る。主な地名と歩いた道筋(橙色)を記入した。

 左下から右上にかけて「荒堰」、「烏川」(以上は「旧高梨村」の「払田」)、また「荒堰」(「板見内」)の地名が並ぶ。「地名へのいざない」によると、「荒堰」は「新たに開削された堰」で、「烏川」は「水枯れの沢」の意とある。この辺りは砂質で水はけが良すぎ、堰の開削が不可欠な土地柄だったのだろう。なお、今回歩いたところで、「川口川」の北側には「二井関」の地名がある。これも「荒堰」と同じ意味だろう。

 ところで、田んぼは大区画に整備されているが、「弥兵衛谷地」や「烏川」、「刈又」の田んぼは細長い長方形の区画が並んでいる。ここは(長辺と直角の方向の)傾斜が大きいのでこんな区画にしたのだろうか。

 下端左寄り、南から延びて来た「広域農道」は、「矢島川」を越えるといったん「県道305号」と合流し、右上、「板見内」の「荒堰」で県道と分かれまた北に延びている。

 「県道305号」は📸005に写っていた「八幡堂」の道祖神のところで左に直角に折れているが、この後見るS51年の写真からも分かるように、ここから東側はバイバスとして付け替えられた路線である。

 次にH28年の、「千刈田」、「長仙寺」、「二井関」などが写る写真。

 右下が「長仙寺」、「千刈田」などからなる大きな集落で、昔の「板見内村」の本村という意味の「本郷」と言われるのに、いかにも相応しい感じである。

 「長仙寺」と書かれたすぐ下の、緑線で囲んだところは、かつての「出原酒造」の大きな建物が立ち並ぶ一角である。そのすぐ右手に木立が茂る、緑の大きな敷地が見える。この敷地のすぐ東の道端に立つ「菅江真澄の道」の標柱には、肝煎も務めた「出原氏居宅跡」とあったが、この緑の敷地も居宅跡の一部なのだろうか。

 右下隅に「本堂城跡」が見える。木立の見えるところは祠などが建つ場所である。大切な史跡としてしっかり管理されていることが分かる。

 城跡の北側を流れる「矢島川」に二つの橋がかかる。下流側(左側)の橋は城跡に向かう時に、上流側の橋は城跡からの帰りに渡った橋である。上流側の橋は、いかにも昔の道筋にあたることを示すような古くて狭い橋で、その雰囲気に引き寄せられて、帰りに思わず渡ってしまったという感じである。

 左上隅に「横堀小学校」の校舎の一部が見える。青く見えるのはプールのようだ。また、「川口川」沿いに見える大きな建物はJAのカントリーエレベーターである。

 次にS51年の写真。最初に「一ツ森」、「弥兵衛谷地」辺り。


 
 H28年に比べると田んぼの区画が小区画である。そして、「矢島川」沿いをよく見ると、かつての蛇行跡が文様のように残っているのが分かる。

 左下の「一ツ森公園」の南に当時の温泉施設が写る。前回の「横堀-6」でも書いたが、当時の温泉施設の入口は西側(現在は東側)にあったことが分かる。公園の東側に見える長方形の施設はプールだろうか。

 どうでもよいことだが、「県道305号」の、公園の南東に当たるところに古い道跡が残っている。これはH28年の写真でも確認することができる。県道をまっすぐに付け替えたことが分かる。

 右上、ピンク色の線は、まだ整備されていなかった現在の県道の道筋である。当時の県道はまっすぐ東に延びていた。

 次にS51年の、「千刈田」、「長仙寺」付近の写真。


 
 ピンク色の線は、前掲写真と同様、現在の「県道305号」の道筋。
 緑で囲んだところは、H28年と同様、「出原酒造」の施設が立ち並ぶ敷地と思われるところ。その東側、南と東を当時の県道に接する大きな四角い一角には、数軒の家が建っているが、この写真を見ると、ここ全体が昔の「出原家」の居宅だったようにも見える。

 右下に「本堂城跡」。パッチワーク状に見えるところは、小さい区画に分けて畑を作っていたためと思われる。パッチワークの周りの田んぼのように見えるところは、一段低くなっている内堀跡である。

(⑧に続く)


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