●歩いた日:2018年9月2日(日)
●歩いた所
・北楢岡:町頭、下新屋、布田谷地、北楢岡、金助谷地、沖田、一本木、小山田、沼の上
●歩いたログ(足跡)(道のり5.7km)
(以上の地図:国土地理院)
県道を西に少し進んだ十字路のところで通りをカメラに収める。
📷003:「布田谷地」、「町頭」方面
十字路から東(「神宮寺」方面)を望んだ写真。奥から手前に歩いてきたところ。道左側が「布田谷地」、右側が「町頭」である。
道奥の大きな白い建物に「ナガイレーベン」の文字が見える(?)。調べると、「ナガイレーベン」は東京に本社を置く医療用白衣等の販売会社であるが、「旧神岡町」のここはその物流センターのようである。また、白衣等の製造は、物流センターの奥隣りにある子会社の「ナガイ白衣工業(株)」で行っているとある。
同じ場所から西(「旧西仙北町刈和野」の方面)を望んだ写真である。
(「北楢岡」のメイン通り)
県道(「旧羽州街道」)沿いに家々が建ち並ぶ「北楢岡」のメイン通りで、道の両側は小字も「北楢岡」である。
ところで、「地名への・・」によると、「北楢岡」はかつて「神宮寺新町」とも呼ばれたとある。また、この地はS21年と32年に大火に見舞われたともある。S32年は私が小学校2年生の時であるが、家の北西方向にもうもうと煙があがったこの大火の記憶があり、「大きい火事は神宮寺新町なんだと」と親たちが話していたことも覚えている。
道の右脇に白い標柱があるので近寄って見る。
(郷倉跡の標柱)
小さな社のそばに立つ標柱には「北楢岡郷倉跡」と書かれている。説明書きには、天保の大飢饉後の天保7年(1836年)から、凶作に備えて農民や町民から一定量の米や金銭を供出させて貯蔵したところで、備荒倉ともいい、明治初年まであった、とある。
「仙北平野」は「東山」が太平洋側からのヤマセ(夏の冷たい東風)を防いでくれるので、稲の冷害は少ない地域ある。近年では、全国の作況指数が74(岩手県30、青森県28)の大冷害に見舞われて米の緊急輸入が行われ、平成の米騒動といわれたH5年(1993年)でも、「仙北平野」を含む県南内陸部の作柄は86(秋田県全体では83)であった。昔は、酷い凶作に見舞われた岩手県側の農民が「東山」を越えて「仙北平野」に逃れてきたとか、県境に近い岩手県の村から「東山」を越えて、飢えの心配の少ない「仙北平野」の村に嫁に出した、という話も聞いたことがある。そんな「仙北平野」の一角でも、郷倉を設置しなければならないほど、天保の飢饉は大きな被害をもたらしたのであろう。
写真に写る社の奥を通る道に北に向かい、少し進んで十字路を左折して街の北側外縁を通る道を西に向かう。
(その3に続く)
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