ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧大曲市大曲を往く-4(街中歩き)(その8)

2020年03月04日 | 旧大曲市を往く

<「大町」の「はなび・アム」>

●歩いた日:2019年12月9日(月)

●歩いた所

 ・大曲:通町、中通町、黒瀬町、大町、上大町、栄町、上栄町、日の出町、金谷町
  ※ いずれも新町名である。正式には町名の前に「大曲」が付く。

●歩いたログ(足跡)(道のり5.8km)

(以上の地図:国土地理院)
※ 市街地で見づらいですが、ご容赦願います。

 「寺町線」に出て少し西に行ったところに「諏訪神社」がある。

(「上大町」の「諏訪神社」)

 「大曲」のシンボルとも言える大きな神社で、「大曲の綱引き」(2月15日)、「梵天祭」(2月26日)はいずれも「諏訪神社」の神事である。綱引きについては📷006:「大町」の十字路の項で触れたところ。私事であるが、確定申告のために2月26日(2020年)の9時頃に税務署に向う途中、「大曲駅」前の「通町」で街中を練り歩いている梵天に出会った。

 また、最近広く知られるようになった全国花火競技大会「大曲の花火」は、M43年に「諏訪神社」例祭の余興花火として行われた「第1回奥羽六県煙火共進会」がその始まりという。
 縁起によると、創立は延暦20年(801年)で、「坂上田村麻呂」が蝦夷討伐のため「大曲」の「古館」に陣取って「真昼山」の賊を平らげ、その戦勝を祝って陣取った場所につくったお宮が「諏訪神社」であるという。「江戸時代」になって、「古舘」には藩主の「佐竹」氏が本陣を設けたため、神社は現在地に移転したという。本陣はここからすぐ北の「大町」の一角にあったので、「古館」はその辺りに当たるようだ。
 なお、社殿は古い歴史を感じさせるものではなく、まだ新しいように見える。調べると、神社はS41年に放火によって焼失し(そういえば私にも微かな記憶がある)、その後浄財を募って再建されたとある。
 神社の前から歩いて来た東の方を望む。

📷013:「大町」の一角

 十字路の信号で止まっている車の辺りに、右手からこの道に出て手前に来たところ。こちらから見ると道の左手にも建物の間に向かう道がもう一本ある。これが古い道で、広い道は後で整備された道であることがわかる。
 ここの道は「寺町線」。古い道奥の左手にある高いビルは仏壇店・・・。古い道を抜けて南北に走る広い道に出、北に向かう。右手に「大川寺」の広大な敷地・墓地を見ながら少し進むと「丸子川」のかかる「館の橋」に至る。橋のたもとから西を望む。

(「大町」の「花火伝統文化継承資料館 はなび・アム」)

 右側の高い建物は「丸子川」岸に一昨年オープンした「はなび・アム」で、長い歴史をもつ「大曲の花火」の地に花火文化の継承と花火を核としたまちづくりの拠点として整備されたものである。
 「大曲の花火」は前述したようにM43年に「第1回奥羽六県煙火共進会」としてスタートした。T4年から「全国花火競技大会」となり、その名称で現在まで続いているとのこと。余談であるが、有名な「土浦」の花火もS21年に「全国花火競技大会」に名称を変えたため、50年近くも同じ名称の花火大会が続いていたらしい。しかし、その間に「大曲」で開催される大会は「大曲の花火」として浸透していったとのことで、災いが福に転じた感もある。「土浦」の大会はH4年から「土浦全国花火競技大会」に再度名称を変えたため、名称の重複は解消されている。
 なお、「大曲の花火」は毎年8月の最終土曜日に開催されるが、「大仙市」になった現在、一年を通じて、毎月、合併した旧町のどこかで花火が打ち上げられている。
 「はなび・アム」の左隣に黒い大きな屋根の建物がある。現在は「はなび・アム」の別館となっている「大仙市産業展示館」(別館となった後はこの名称は使われていないのかな?。各種の展示会や講座などが開催されている。)で、この場所にあった「佐竹家」の本陣を再建する形で作られた施設である。
 手元に「仙北風土記」(藤田秀司編、秋田文化出版社)があり、その中に「鞠水館ものがたり」がある。それによって「本陣」のことを少し綴る。
 本陣は幕府役人や参勤交代時の大名が宿泊した公認の宿舎で、通常は宿場の大きな旅籠や素封家の家などが当てられた。一方、「大曲」の本陣は「佐竹」の殿様だけが泊る専用の宿舎だったとのこと。その本陣をかなり忠実に再現しただけあって、写真で分かるように相当重厚な建物である。
 明治になって本陣が不用になったとこから「大曲」の有力者(後に「大曲村」に寄付される)に渡され、「鞠水館(キクスイカン)」と名付けられた(「丸子川」は「鞠子川」とも表記されていたので、それに因んだようだ)。学校、役所、裁判所などとして利用された後、「大曲」や「仙北」の文化人やリーダー、有志などが会合する場所、中央から文人などを迎える場所となった。人が集まれば宴会も開かれる、ということで料理屋も兼ねた。
 戦中、戦後は疎開学童や引揚者の臨時宿泊所としても使用されたという。
 その「鞠水館」も老朽化が進んだためS43年に解体されたが、H3年に「産業展示館」として再現されて今日に至っている。
 なお、「展示館」のすぐ左隣に老舗料亭「大曲くらぶ」があったが、2~3年ほど前に店を閉じ解体された。「大曲くらぶ」は「鞠水館」の飲食部門を受け継いだものであったという。無くなったのは残念な気がする。
 写真右端に「丸子川」、奥に「姫神山」がのぞく。(今回は文章が長いのでここまで)

(その9に続く)


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