●歩いた日:2018年1月14日(日)
●歩いた所
・高関上郷(四ツ屋):向田、高屋敷、不動堂、新屋敷、野際、蕨野
・四ツ屋 (四ツ屋):下新谷地、諸又、西下瀬、上古道、下古道、上原野、下原野
●歩いたログ(足跡)(道のり5.4km)
(以上の地図:国土地理院)
「野際」、「蕨野」と進んで、スタート直後に歩いた道との十字路に至る。
📷014:道脇の地蔵堂
写真右手に小さな地蔵堂と石碑が写る。スタート直後に地蔵堂の手前の道を右から左に歩いて行ったところである。道脇に地蔵堂と石碑があることは、昔からここを道が通っていた証でもある。
ところで、この地蔵堂の前で毎年の7月下旬夕刻にお祭りが行われる。私の子供の頃は、ほかの多くの子供たちと一緒になって線香花火を上げたりして遊ぶことができたので、毎年楽しみにしていたものである。祭りは今も続いているが、小さな子供は一人もいなくなってしまったので、寂しいものになってしまった。
なお、昨年(H17年)は我が家も地蔵様の当番で、赤飯を注文するなどして祭りの準備をしていた。しかし、祭り前日に大雨が降り、「大仙市」は近年にない大洪水に見舞われたことから、急遽祭りは中止にし、各家個別にお参りをすることにした。注文していた赤飯を「花館」の店に妻と一緒に取りに行ったら、「雄物川」及び「玉川」沿いの低い土地や田んぼが一面水浸しになっていた。赤飯は各家々に届けて歩いた。
道奥の四角い建物のすぐ向こう側が「角館街道」である。地蔵堂のところを右に曲がって出発点に戻る。
最後にいつものように昔の航空写真をご覧いただく。最初に、現「角館街道」が開通する直前のS38年の写真。
「角館街道」以外の道はほとんど現在と同じなので、非常にわかりやすい。左下から来た道がやや左にカーブする地点が、今回出発点としたP地点である。「角館街道」は「大曲」方面からこの地点まではほぼ写真の道と重なっているが、その先は田んぼの中をまっすぐに通されたことがわかる。
P地点のすぐ北にある十字路が地蔵堂のあるところ。この道を「不動堂」の集落を通り抜けて行った先の、鉄道に近いところに📷003の小丘の小さな森が写る。当時は、そばに3軒ほどの家があるが、ほかはすべて田んぼである。
以前のブログにも載せたが、「四ツ屋小学校」の校舎が南北に、中学校の校舎が東西に建っているのが写る。グランドの北東側に並ぶ木が桜で、その何本かが今正門脇にある老木である。
上端まん中辺りに、📷010の「上原野」の大樹もはっきりと確認できる。この写真でもかなり大きな木であることがわかる。
なお、余談になるが、青い矢印に注目しておいていただきたい。当時の現地を知っていないとわからないことであるが、小さな黒い点は柳の木である。道沿いの水路脇にあった木で、「大曲」方面に目をやると、ぽつんと立つ姿が目立っていた。
次はS51年の写真である。
「角館街道」が開通して10年ほど経ち、沿線に少しずつ建物が立ち始めている。「東北農業研究センター大仙拠点」がすでに現在の場所に移転を終えている。
📷003の小森のすぐ右に、「北大曲駅」のホームと小さな待合室が写る。駅の北西側はほとんど田んぼで、住宅団地はまだ形成されていない。
「四ツ屋小学校」の校舎は位置を変えて、かつて中学校があった場所に建っていることがわかる。現在はまた校庭の西側、昔あった場所に移っている。
学校の北西に研究センターの戸建ての官舎が建ち並んでいる。官舎の西側に防風林が植えられており、本文も書いたが、📷008の木は南の区画の防風林が残ったものと思われる。現在、戸建ての家屋はなくなって、北側の区画に集合住宅が建っている。
S51年の写真を見ているうちに、S38年の写真で水色の矢印で示した木がまだ残っているのを発見する。よく見ると、木は「角館街道」から少し離れて立っている。写真を拡大すると、この辺りの「角館街道」は以前の道とは少し東側にずれたところを通っており、以前の道の痕跡もまだ残っていることがわかる。改めてS38年の写真を見ると、以前の道はP地点のすぐ南のところで微妙にカーブしていたので、その一部がしばらく残ったのであろう。蛍のすみかになっていたこの木もいつの間にかなくなってしまった。
今回歩いたところは我が家の近くでもあり、また、文章を書いているうちに子供の頃を思い出したりして、読んでいただいている皆様にはどうでもよい、わかりにくいことを細々と書いてしまいましたが、ご容赦願いたいと思います。
(終わり)
●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:279.6km)
次回からは、車で出かけた「旧千畑町畑屋」の二度目の記事を掲載する予定です。
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