ふるさと!-秋田仙北平野を歩く-

ふるさと秋田の「仙北平野」をくまなく巡り歩き、その写真とエッセイを掲載します。

★旧太田町横沢・長信田を往く(その5、終)

2017年09月30日 | 旧太田町を往く

●歩いた日:201794日(月)

●歩いた所:相野、窪関南、堤田、堤東、久保関北(以上「横沢」)、新田、太田、新田熊野堂、新田熊堂尻、新田中島、新田田尻、新田街道上(以上「長信田太田」)、伊勢堂(横沢国見)

●歩いたログ(足跡)(道のり:9.5km

(以上の地図:国土地理院)

 「新田中島」からさらに西に進む。右手に「太田中学校」が近づいてくる。学校の正門前、グランド脇を過ぎると「市役所太田支所」がある。その前で来た道を振り返る。

📷013:「新田田尻」の道

 見事なケヤキ並木である。この左奥がグランド、中学校の校舎も少しのぞいている。

 この辺りの地名も「新田」が付いて「新田田尻」、さらに「新田街道上」と西に進む。「角六線」の少し手前でまた花壇に出会う。

 鮮やかな花の彩りに思わず目を奪われる。立て札に「大町ふれあい花壇」とあり、花壇コンクールで賞を受賞した旨の札も掛けられている。

 「角六線」を突っ切ると「伊勢堂」で、そこをさらに西に進む。車を止めてある場所近くの水路にかかる橋の上からカメラを向ける。

📷014:「下堰跡」

 この水路は、以前に掲載した「旧太田町横沢を往くー2」にも記述した「下堰跡」に作られたものである。「下堰」は前述の「御堰」よりもかなり古く、江戸時代中期(前期?)の1684年に新田開発のため開削された水路である。なお、「角六線」沿いには同時期に作られた「上堰跡」もある。

「仙北平野」は、これら江戸時代に作られた「堰」から現在の「田沢疎水」に至るまで、水との闘いの末に今の姿になったのだと思うと感慨深いものがある。

 この水路の右脇を歩いて車に戻る。今回歩いた道のりは9.5kmでこれまでで一番長い。

 最後にまた航空写真を見ていただく。

S51年)

 この写真を見ると、道は現在とほとんど同じである。「太田南小」の東隣に「大曲農高太田分校」、「太田中」の西隣に当時の「太田町役場」が写る。「太田南小」と「窪関川」の間は、📷004のところで書いたように、現在は福祉団地の様相を呈して多くの施設が立ち並んでいるが、当時は、道路は通っているものの建物は全くないことが判る。

 水色の線は、次のS23年の写真と見比べながら、二つの標柱から「御堰」の水路跡を推測したものである。

 「太田中」の北から北東にかけて、二本のまっすぐな道沿いの西側に家並が整然と並んでいるのに注目しておいていただきたい。

S23年)

 この写真を見てまず気付くことは、東側一帯と「窪関川」沿いには田んぼが拓けているものの、写真の北西側と南側に、原野あるいは畑と思われる土地が田んぼの面積と同じくらい広がっていることである。

 調べてみると、「田沢疎水」はS12年に着工されており、この写真にその水路がはっきり写っている。東側一帯はこの水路やかつての「御堰」の開削などによって開田が進んだと思われるが、そこから少し離れたところまでは水が至らず、開田できなかったことが判る。

 S51年の写真で注目いただいた二本のまっすぐな道が写っており(東側の道は途中で途切れているが)、その道沿いにまばらであるが家のような建物が見える。この道は、この地を開拓するために作られた道で、道沿いの建物は入植者の家や小屋であると想像される。入植しても当時は稲作ができないので、厳しい経営を強いられたと思われる。しかし、S51年には、これらの道の沿線も含めて原野などは全く無くなり、一面の広々とした田んぼに姿を変えている。

(終わり)

●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:218.0km)

 先日、久しぶりに「旧神岡町神宮寺」を歩いてきました。次回からその記事を掲載する予定です。


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