<「旧大曲市藤木」を歩いたログ(足跡)>
●歩いた日:2019年11月23日(土)
●歩いた所
・藤木:上野中、乙新藤木、甲新藤木、街道下、扇合、丙一本木、小船橋、谷地、甲本藤木、乙本藤木、八幡腰、新田
●歩いた位置
●歩いたログ(足跡)(道のり6.1km)
(以上の地図:国土地理院)
「旧大曲市藤木」は、明治の立村・合併で「藤木村」(今回歩いた辺り)、「下深井村」(ログ地図右上、「奥羽本線」沿いに地名が見えます)、「六郷西根村」(ログ地図の枠外の北西部、「雄物川」の両側にまたがる範囲)が合併した村です。
最初から余談になりますが、「六郷東根」は、「六郷」の街の東、「東山」の麓(根っこ)にあり(歩いた記事は先に掲載したばかりです)、立地と地名がぴったりしますが、「六郷西根」は、「西山」に近いので「西根」はわかりますが、「旧大曲市」にあり、明治以前も「下深井村」を挟んで「六郷村(町)」とは離れているのに、なぜ「六郷」の地名がついているのか不思議な感じがします。それなりの由来があるのでしょう。
ログ地図の左下に広がる街並みは「旧大曲市角間川」の街並みですが、その北側を蛇行しながら街部を横断している川があります。改修される前の「旧横手川」です。この川が「角間川」と「藤木」の境になっており、新旧の「横手川」と「雄物川」に挟まれたところにある「八圭」は「藤木」に属します。以前、「角間川」を歩いた時、今の「横手川」が境になっていると思って、その橋のたもとに車を置いて南に歩き始めましたが、「八圭」の家並の途中に「藤木角」のバス停があるのを見て、ここが「藤木」であることに気が付きました。ただ、「八圭」も川港・「角間川」と一体的に街が形成されてきたようです。
前置きが少し長くなりましたが、本文に入ります。
「大曲」の街部から「角間川」に向かって車を走らせると、「横手川」が「雄物川」と合流するすぐ上流に橋がある。この橋を渡ると「八圭」で、そのまん中辺りにある十字路を左に折れて東に進むとまた「横手川」にかかる「藤木上橋」がある。この橋は「角間川」を歩いた時に立ち寄った橋だが、そこを渡って、橋のたもとの、堤防上の道脇に車を停めてスタート。堤防を下るように東に少し進むと道はふた手に分かれる。左手の道先に学校(「大曲南中学校」)が見えるが、右手の道(「県道116号」)に向かう。この辺りは「上野中」である。
県道を少し行くと「乙新藤木」になり、道角から南の方を除くと狭い橋が見える。そちらに進んで橋を越えたところで振り返る。
📷001:「出川」にかかる「大久保橋」
川は「出川」で、橋のたもとの名板に「大久保橋」とある。橋の中央部だけが両側に膨らんで広くなっている。狭い橋なので、車がすれ違う場所を設けたのだろう。
橋の両側に赤白のポールが何本も立つ。除雪する際の道(橋?)幅を示すポールで、除雪する範囲を決め、作業の安全の安全を期するためのものである。除雪機で除雪するすべて道に立てられるので、おそらく何万本にもなるであろう。これも大変な作業である。
堤防上の道から川下の方を望む。
(「出川」と「横手川」の合流地点)
橋は先ほど車で渡った「藤木上橋」で、右端の電柱の下に私の車が小さく写る。
「横手川」が左手から橋の方に流れ、橋の手前で「出川」が合流する。この辺りの「横手川」は、戦後まもなく、付け替えられてできたところで、そこに注いでいる「出川」の昔の流路はどうなっていたのだろう。最後に、航空写真で確認してみたい。
「大久保橋」を渡り返して県道にもどり、東に少しだけ進んだところで振り返る。
📷002:「乙新藤木」の道角
先ほどは、右奥から県道を手前に来て、この道角で左手に折れて「大久保橋」に向かったところ。
この「県道116号」は、川港・「角間川」と「六郷」の街をつなぐ古くからの幹線道路である。写真でわかるように、まっすぐ奥にも狭い道が延びている。ログ地図をみると、川の向う側にも、この道の延長線に当たるところ黒い線で描かれた道がある。つまり、今の「横手川」が掘削される前の県道は、ここから「八圭」にまっすぐ延びていたが、その間に「横手川」が掘られ橋が必要になったことから、橋の前後で道も付け替えられたものである。
ところで、「藤木」に見える地名は独特である。まず、「藤木」の中に「本藤木」と「新藤木」がある。さらに、それぞれの「藤木」に「甲」と「乙」がある。また、この後歩いた「一本木」は、字地名としては「丙一本木」で、「丙」があるからには「甲」も「乙」ももちろんある。
(その2に続く)
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