8月25日 (火) 
福岡に住む元大学教授のSK君が癌手術で入院したという。この齢で癌手術に踏み切ったのかと驚き、その先行きに大きな不安を覚えたのは私だけだったろうか。
旧三金会の仲間うちだったNT、NHの両君が昨年相次いで亡くなっている。二人とも元大学教授だった偶然もあって、なんとも嫌な気分になった。
旧三金会の仲間はちょうど85歳前後の年齢に達しているが、昨年までしばらく訃報に接することがなく過ごしてきていたが、いよいよ身近に我々世代の寿命がどうやら尽きる時期に差し掛ていると思い知らされたようだった。
ところが、昨日、入院したと聞いていた当のSKからえらく元気のいい声で電話がかかってきた。どこでどう間違ったか、癌入院など全くの誤報で本人はピンピンしているではないか。
まずは目出度し目出度し。
彼の電話によると、三金会は解散後も福岡では残党が今も集まりを続けているようで毎月6人が出席しているという。羨ましい限りだが、そのなかで酒を一応飲めるのは彼だけだというから大したものだ。
このとんでもない誤報をネタにして、いつしか二人でこれからの我々世代の残された時間をあれこれ話し合い1時間余の長電話になってしまった。
彼は言う。「おれは88歳まで生きると思う」。これに対して私は「オリンピックが見れる90歳までを一応の目途にしている」と。
この電話を終えてから考えた。
日本人男性の平均寿命プラス平均余命に信を置き現在の自分の健康状態を勘案して判断するならば、90歳は一応順当な目途にはなろうが、目途はあくまでも目途、この年齢になってみれば、いつなんどき致命的な病や怪我、あるいは事故に襲われるかもしれない。そのことも念頭に置いて考えることも大事だと。
そのための心構えとして、仮にあと半年の命と宣告されたらどうするか。 6ヶ月生きるとして、それまで何をするか、なにをしたいかを考えてみた。
あれこれ考えてみたが、どうやら取り立ててやりたいことが見当たらない。
特別にやりたいことなどなく、私の場合、今の生活の延長線でできるだけ平穏に過ぎゆけばいいということに尽きるようである。
桜、新緑、紅葉など美しい自然の姿をもう一度見てみたい。朝日に輝く海、ピンクに染まった入日雲の景色などじっくり堪能しするのもいい。古くからの親しい知己などに会ってみたい。うまい酒を飲んでみたい。美味しいものを食べたい。などなど強いていえばあったほうがいいには違いないが、なければないでも構わない。
それぞれそれまでの生き方の積み重ね、人生観などに影響されてその人なりに判断することになるのであろうが、私はもともと単純人間、これまでもだいそれた願いはなく、ごくごく平凡な生き方をしてきているので、改めて問われてもく思い付くものはないに等しく答えはおのずと単純になる。
取りあえずは物質的な面での身辺整理はしなければなるまいが、あと残さない物をきれいさっぱり捨て去ることだけのことで、残るは許された生命を心穏やかに、身体が不具合であるならそれを受け入れ、できるだけしなやかにその身体の不具合に寄り添いながら生きることを心掛けたいと思うくらいである。
なお、私は癌が発見されても手術はせず、そのまま放置したいと思っている。末期癌で発見されるのが最も望ましい。人に邪魔されずひとり静かに逝く孤独死も考えようによっては素晴らしい死に方ではないか。
この点については近藤誠医師や「自然死のすすめ」を書いた中村仁一医師の「死ぬのは《完全放置》の癌に限る」に全幅の信頼を置いて対処するつもりである。
(近藤誠「抗がん剤は効かない」「医療と薬を遠ざけて元気に長生きする方法」、中村仁一「大往生したけりゃ医療とかかわるな」)