伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

新幹線で博多へ

2015年05月30日 | 日記

5月26/27/28日    (水・木・金)       

94歳の義兄の訃報に接し、新幹線で博多まで急行する。二泊三日の旅行となったが全く疲れ果てた。やるべきこことなどほとんどないのにかかわらず……。

体力・知力・気力ともどもいつの間にか衰えてきているのを実感させられる旅となった。

これまで列車や駅頭で「お身体の不自由な方は……」とかいう放送を聞き流してきていたが、今回は「お身体の不自由な方……」だけでなく「頭が弱くなった方は……」というのを付け加えられても致し方ないような気分になってしまった。

とにかく、身体の動きだけでなく頭の動きについても失敗が多かった。所定の列車に乗り遅れたり、切符の取り出しを忘れたり、階段がきつかったり、歩行がのろかったりで、あれやこれやこれまで経験したことのない失敗の連続であった。

夫婦二人だからなんとか凌いできたものの、もう一人では長距離旅行は無理なようである。思えば80老夫婦の身動きであることからそれも致し方ないか。

福岡は我々にとってもっともなじみのある街なのに、そして数年前にも出掛けて行っているのに、なにかと変化しており、そうした変化への対応ももどかしく、すべてが不自由になってきている。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

正味二日の福岡滞在だったが、葬儀関係以外にやったことといえば、29年前に2年間住んだ箱崎の敷地だけは馬鹿広い(300坪?くらい)老朽官舎の跡がその後どうなったかを見たことだった。現在、その広い敷地跡には介護施設らしき建物とマンションが建っており、辺りも一変、昔をしのぶよすがもない。果たしてここが?と疑問に思ったほど。

ただ、近くの箱崎宮だけはほとんど昔のまま。巨大な鳥居、美しい緑したたらせる楠木が続く参道は一級品だ。

ここにきて、思わぬことに気が付いた。参道に旭日旗が並べられて立てられている。ちょっと奇異な感じを持って本殿近くまでいって、そうかと思った。

その日は5月28日、戦前に育った私の記憶に刻み込まれている「海軍記念日」であった。明治38年のこの日とその前日、ロシアのバルチック艦隊を日本連合艦隊が日本海で完膚なきまでに撃破したあの「日本海海戦の日」であった。

今の世を憚ってか、門前には「さつき祭り」と大書されており、その横に括弧書きで(日本海海戦記念大祭)と申し訳のように書かれていたのを見て、なにか気持ちに引っ掛かるものがあった。

神門に高々と元寇の際亀山上皇が納めたという「敵国降伏」の扁額が目立ったが、これは私が住んでいた頃もあったかしらん。記憶があいまい。

昭和は遠くなったというが、大正は、そして明治はあまりにも遠くに去り、視野から消えようとしているのを思い出させるこの情景はなにかジンと来る。

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久し振り IKOI農作業

2015年05月23日 | 園芸

5月23日    (土)     

4月からIKOI農園でメンバーによる共同作業は全くなかった。

雨が多かったり、連休で訪客があったり、メンバーの旅行や引っ越など様々の用務、それにボランティアによる「竹の子村」の竹の子祭りの運営があったりするなど個々人の事情が山積したため、IKOI農園で集まっての園芸作業は絶えてなかったのである。

今日は、3人での共同作業、本当に久しぶりであった。明日は続けて「収穫祭」を考えたが天気予報では雨、延期となる。

自宅とIKOI農園の間にある空地の草刈り、ここには「瓢箪南瓜」が植わる予定。Mr.IWの大活躍。

 

牛蒡の培地を作りと種撒き。Mr.ITの大奮闘。

農園に設置した貯水槽 (旧バスタブ)には水の中から睡蓮の美しい花が一茎。

飛来した伊東市の市鳥「イソヒヨドリ」、美しい鳥である。最近はここらあたりでもよく見かけるようになった。

今年は豌豆(グリーンピース)は例年より沢山実った。本日最後の収穫。

収穫期となったソラマメ。

ジャガイモ、玉ねぎもそろそろ収穫期に近い。

スティックブロッコリーもそろそろ。

トウモロコシはこれから夏にかけて成長する。

九条ネギ定植。

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置き雛 初夏バージョン

2015年05月20日 | 手作り

5月20日    (水)     

玄関先の置き雛が初夏バージョンに変わった。

 

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レンジでらくチン ゆで卵

2015年05月19日 | 日記

5月19日    (火)     /

卵は私の好きな食品の一つである。

毎朝食には目玉焼きやゆで卵を食べることが多い。日本人一人当たりの年間平均消費量は324個、メキシコに次いで世界第2位だというから私の消費量は日本人の平均をはるかに上回っていることは確かだ。

私が小中学校生だった戦前では、卵焼き・目玉焼き・茹で卵は大変な御馳走だった。戦争がはじまり食料難が取沙汰されるようになった頃には卵は家庭の食卓からは完全に姿を消していった。

その頃、私には今も忘れ難い思い出がある。

同級生だったO君から「おれの家は百姓だから、食べ物は沢山あるから遊びに来いや」と誘われて出掛けたことがあった。

藁葺屋根の百姓家をなんとなく想像しながら行くと、とんでもない立派な門構えの板塀で囲まれた広壮なお屋敷で、甘いものなどその頃すっかり姿を消していた時代だったのに腹いっぱい饅頭やら団子やらミカンなどをすっかり御馳走になって帰ってきた。

その折見かけたのが、縁先に置かれていた大きな籠に真っ白な卵が溢れんばかりに山もりにされていたのである。その光景は今も強烈な印象となって記憶に鮮やかに残っている。

以来、私にとっての「豊かさ」の具象的イメージは「籠に一杯盛られた卵」になってしまった。

生卵はその栄養価・美しい姿・味の良さ・料理法の簡単さなどから高貴な食品(野菜の大根やキャベツ、魚の鯖や鯵、肉の豚肉や鶏肉を「庶民」とみるなら、卵はその風格からして「貴族」)という思いはいまも消えない。

それにしては価格があまりにも安い。安過ぎる。1個30円くらいか。だが、かつては違った。卵は「物価の優等生」だといわれる。飢餓と貧困に苦しんだ戦後のインフレ期、それから高度成長期を経て現在に及ぶ飽食の時代まで、価格はほとんど変わっていないのである。

黒沢明の映画「野良犬」の一場面だったと記憶しているが、戦後の荒れ果てた街角の露店の張り紙に「卵一個10円」とあった。その頃の平均給与は1000円にも満たなかったろうから、卵は当時は大変な高価な食品だったことが分かる。

馬鹿な話だが、戦前・戦後を生きてきた私が相当に年配になってから家内に指摘され気付いたことは、おでんの具の中で卵を最後に食べるという習慣だった。これは卵を無意識に最上のもの、美味しいものと考え最後まで大事にとっておくといった思い込みがあったからだろう。

ところで、その卵で作る定番料理の「ゆで卵」だが、これを簡単に作ることができる素晴らしい器具をネットショップのアマゾンで見つけたのである。

ゆで卵をお湯を沸かして作るのは意外に難しい。好みに応じて湯加減で完熟・半熟を選択するのには相当に技術がいる。また、殻をむくのも難しい。殻がなかなかむけずにゆで卵のつるりとした白い肌が無様な恰好になったりすると悲しい。

そんな悩みを一挙に解決してくれたのが「レンジでらくチン ゆで卵器」というなんとも便利な器具である。

使い方は極めて簡単、器に所定量の水を入れて卵を並べて置き(一個または二個、どちらでも可)、電子レンジに入れて500Wなら10分にセットするだけ。これなら完熟が出来上がる。9分30秒なら固めの半熟、9分なら黄身がとろりとした半熟に、レンジだから好みに応じて正確にセットすれば、望みどおりのものが作れるという優れもの。もちろん、殻はつるりと簡単に剥ける。

しかも、なんと価格は驚くなかれ僅か782円、しかも送料無料と来た。

この器具を使えば、あの瑞々しいゆで卵の美しい肌にいつでも出会えるのである。失敗をすることはない。これを考え出した人は偉い。実に簡単な仕組みだが、技術大国日本の底辺を支える原点をみる思いだ。

すっかり気に入り、自家で愛用しているだけでなく、あちらこちらに紹介しまくっている。

 

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初夏に向かう

2015年05月15日 | 園芸

5月15日    (金)      

立夏が過ぎ、暦の上ではすでに夏。

梅雨が来るまで緑はいよいよその濃さを増し、草木の花は盛んに咲き乱れる季節の到来である。

我が家の庭では「タツタ撫子」が目下花盛り。

農事では育苗作業も順調に進んでおり、これからいよいよ忙しくなる。

 

 

胡瓜、ししとう、万願寺、それに今年はハーブ(バジル、デイル、イタリアンパセリ)も種から育てている。

それに家内のための花(ルピナス、マリーゴールド)も種から……。

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家内とフットパス

2015年05月08日 | ウオーク

5月7日    (木)     

天気が続いている。当地では平坦な道にとして選ばれる散歩道、私が勝手に名付けた「神祇大社参詣路」を歩く。

途中の休憩は蕎麦処「砂場」での昼食はいつもの通り。ただ、これまでのように天麩羅蕎麦二人前ではちょっと重い。そこで私が天麩羅蕎麦を注文、家内は山菜蕎麦として、天麩羅を家内にすこし分けることにした。

神社にお詣りして、境内の腰掛けに腰を下ろして中休み。帰りは緩やかな下り道だが、だんだん疲れるようになってきている。

家に帰り着くまでにある緩やかな短い坂道を上るのが以前になかった負担に感ずるようになったは、いよいよ齢のせい。

 

 

 

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ミカンの花が咲く頃

2015年05月07日 | 園芸

5月7日    (木)    /

連休が終わって、ツツジの花がその最盛期を過ぎ、アジサイの花が咲くまでの今日この頃、土地柄育ちのいい柑橘類が随所で小さな花を咲かせている。

目立たない小さな花だが、辺りに漂うその香りはこの時期ならではのもの。この白い花がやがて小さな緑の実に変わり、やがて黄金色の果実となる。

IKOI農園に四隅に温州ミカン、甘夏、レモン、カボス、スダチ、花柚など各種の「ミカン」を植えたのは10数年前のことだったろうか。日本書紀でいう「トキジクノカクノミ」=常にある香り高き木の実」に囲まれた畑地を漠然と思い描いたからだが今にしてこれは正解だった。

白い蕾が綻びはじめればその香りに囲まれて初夏の園芸を楽しみたい。

今年はレモンとスダチの花付がぱっとしないが、それ以外は例年よりびっしり花を付けている。

 

敗戦直後の昭和26年に生まれたという懐かしい童謡

「 ミカンの花が咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える青い海 お船が遠くがすんでる 」 

この歌の生まれは伊東市の宇佐美だというが、大室高原からでもその醸し出す情景は全く変わらない。

もっとも、視線の低いIKOI農園から直接海を望むのは無理だが、二階の書斎からならこんな風に見える。

 

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新しい雛を作成中

2015年05月01日 | 手作り

5月1日    (金)     

連休が始まった。

大室高原の「四多」という。「坂多し、風多し、石多し、老多し」だと。

だが、この時期は「老多し」はその色合いを薄める。多くの家には二世代、三世代が訪れるからである。いつもと違った若やいだ声があちこちで聞こえる。我が家では珍しく息子一人が来るだけ。

人数(ひとかず)が増え、車が増え、食事処は満席近くとなれば、おのずと「老」は外出を控えておとなしく家にいることになる。

「吊るし雛教室]もしばらくお休み。家内は一人家での「雛作り」。新しい雛が作られつつある。

聞くところによれば、春の節句にむけて新しく「お内裏様」「三人官女」「五人囃子」を作るとかで、目下は「お内裏様」と「三人官女」らしきものがすこしく姿を現しつつある。

下界は緑一色、日々緑の色が濃くなっていく。 

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