あの日津波で海の底となった女川町
写真提供 女川温泉ホテル「華夕美」
僕はそこから見えますか
僕はそこから聞こえますか
僕はあの日駅前で踊るお獅子と一緒にまちに時を告げていたカリヨン
四人兄弟の末っ子です
僕だけ見つけてもらいあの日から三人と会えずにここにいます
僕は一人ぼっちになりましたが遠くの海の向こうを眺めながらこのまちを
見守り伝えていこうと思っています
だけど僕だけではそれも叶いません
だから僕を鳴らしてください
そしてみんなに伝えてください
人々の胸にかつての暮らしの風景や出来事の様子が語り継がれ
輝(希)望と安らぎが満ち溢れますように
僕がそこから見えますか
僕がそこから聞こえますか
平成三十一年三月十三日
(宮城県女川町役場庁舎「誓いの鐘」より)
一般社団法人 女川町観光協会
サッポロホールディングス株式会社
女川町
※「誓いの鐘」(クリック!)
宮城県女川町役場庁舎 「誓いの鐘」
撮影 河村 龍一 令和3年3月6日
今年は東日本大震災発生から10年を迎えました。
”節目の年”ということで、私は2月から3月にかけて全国の被災地で一番被害が大きかった宮城県石巻市と、14・8メートルの大津波の急襲により町全体が海の底となってしまった女川町、そして、多くの児童が犠牲となった「大川小学校」などの現地に赴きました。
今回は、私が見てきた被災地の現状について、画像を交えながら当ブログで三回に分けてご紹介いたします。
第一回 大川小学校の悲劇と裁判
1 震災から10年を迎えて~あの日何があったのか
◆風化させてはならない悲劇~大川小学校
―広島型原爆31万6千700発分―
のちに、『3・11』と呼ばれる巨大地震(マグニチュード9.0)のエネルギーを核爆弾に換算したときの数値である。
あの日、その途方もない巨大地震のエネルギーにより想定外の大津波が発生し、宮城県石巻市大川小学校を直撃したのだからたまらない。
(クリック後、動画閲覧注意!)
その結果、「教育現場を急襲した戦後最悪な災害」と歴史に刻まれることになり、かつてない悲劇は全国各地で報じられ、多くの人々の瞼をにじませた。
私は、震災後の大川小学校へ何度も足を運んで独自に検証してみたが、結論は変わらなかった。
大川小学校の大惨事は回避できたのでは、と……。
【当時の状況を時系列で解析】
・午後2時46分
地震が発生、子供たちの多くは「帰りの会」の最中で、机の下に隠れた。
下校を始めていた一部の児童も学校に戻ってきた。
この間、教務主任が校庭へ避難するよう指示しながら校内を回った。
・午後3時
児童が校庭に集合し、教員が点呼を取り始めた。
ここから、現場にいた教師たちは、このまま校庭に居続けるか、津波を想定して逃げるか、逃げるとすれば避難先はどこが良いのか迷走を始めた。
教頭先生は裏山に逃げるべきだと意見したが、区長が「倒木や雪がある。余震も続いている」などと反対して言い合い結局、裏山への避難という意見は却下され、すぐに結論が出なかった。
次第に子供たちは泣き叫ぶなどして動揺し、恐怖のあまり吐く子もいたという。
・午後3時25分
ようやく、生徒たちは北上川に架かる新北上大橋脇の堤防道路の方向(三角地帯方向)へ一列になって避難し始めた。
校庭が標高1メートルで、避難先の三角地帯は標高約7メートルという理由からだった。
・午後3時37分
校舎西側にある北上川と東側にある海岸の二方向から、10メートルを超す山のような津波が、バリバリと轟音を響かせながら迫ってきたかと思うと、堤防道路付近にいた子供たちを一気に飲み込んでしまった。
そして、教職員たちも9人が死亡、1人が行方不明となり現在も発見されていない。
【被害死者・行方不明者数】
・死亡:児童68人(大川小学校の児童108人の7割)と、教職員9人。
・行方不明:児童6人、教職員1人。
画像の大川小学校が“いざという時の避難所”だったというから呆れてしまった。
だが、実際に数人の高齢者たちが同小学校へ避難後、被災死してしまったという。
控訴審では、裁判官がこの点(ハザードマップの見直し)も糾弾したことは、極めて重要だ。
児童たちが待機中の約45分間、ラジオや子どもを引き取りに来た保護者が大津波警報を伝えたり、防災無線のサイレンが鳴り響き、石巻市の広報車が高台への避難を呼びかけていたという。
「あのとき、車のラジオからは『津波の高さは6~7メートル』と流れていた。絶対に津波は来ると思った。でも、あそこには裏山がある。子供が飛んで行った野球のボールを取りに行くことがよくある場所だ。下草もなく、登りやすい場所だった。“あそこに逃げれば大丈夫だ”と言い聞かせていたが、実際はまったく別の方向に向かってしまったのだ」
当時6年生だった三男の佐藤雄樹君(12歳)を亡くした父親の佐藤和隆さん(44歳)は、このように述べ、学校側の対応への不信感を感じたという。
こんな危険な場所(三角地帯)へ避難するために、45分間も校庭で待機していたとは……
(平成23年9月8日付河北新報記事より引用)
子どもたちは裏山に逃げていたら……
*画像の一部について「石巻市立大川小学校『事故検証委員会』を検証する」(池上正樹氏・加藤順子氏共著)より引用
裏山の写真 2021年2月11日撮影 河村龍一
「ここにいたら死ぬよ。山に逃げよう」という生徒の言葉は正しかったのか。避難先が何故、河に近くて海抜の低い(約7メートル)『三角地帯』だったのか。東京でもあれだけ強く揺れた巨大地震だ。想定外の津波は十分に予見できたのではないか。
次の画像を見てほしい。「6~7メートルの津波がくる」と警報されている危機的な状況下において、はたしてこのような標高の低い川沿いの避難場所に向かって、あなたは避難することができますか。
ちなみに、私が立ってこの画像を撮影している場所の標高は、「三角地帯」と同じ高さの約7メートル。
写真:北上川上流から撮影した「新北上大橋」と「三角地帯」方面
2021年2月11日撮影 河村 龍一
【震災から5年後に撮影した大川小学校の画像集】
現地に着くと、何ともやり切れない思いに駆られ、すぐに焼香した
遠くの被写体は子供たちに似せた人形
私がいつ来ても、大川小学校は雨の日ばかりかった。(撮影 河村龍一)
2 裁判
「児童は津波により死に至ったのではない。学校にいたから死ななければならなかった。もし、先生がいなかったら、児童は死ぬことはなかった。本件は、明らかに人災である」
その後、大川小学校の遺族が「救えるはずの子どもの命を守る義務を果たさなかった」などとして、宮城県と石巻市を相手に総額23億円の損害賠償を求める訴訟を仙台地裁に起こした。
*大川訴訟の判決について
大川小教職員は地震発生後の約45分間、児童に校庭で待機するよう指示。
午後3時37分ごろ、校庭近くの北上川堤防付近(三角地帯、標高約7メートル)に向かう途中で津波にのまれ、児童74人と教職員10人の計84人が死亡・行方不明となった。
1審の 判決は、市広報車が避難を呼び掛けた午後3時30分ごろには教員らが大津波の襲来を予見し、認識したと認定。「裏山は避難場所として何ら支障がなく、堤防付近への避難は不適当だった」とし、計約14億2千660万円の支払いを命じた。
裁判の経緯と結果については、こちらをクリック!
こう言っちゃあ悪いが、たとえ勝訴したところで、亡くなってしまった子どもたちは、もう二度と戻ってくることがない。きっと、このことはご遺族にしてみても同様な気持ちだと思う。
ただ、裁判という手段を選択してまでも、「戦後最悪な震災」と歴史に刻まれてしまった悲劇の真相を解明したかったのだろう。
裁判では、教師の判断ミスだと認められたといっても、ああ、これでよかったな、と、ご遺族の方々が納得できるような話ではない。
でも、勝訴ということで、とりあえず合掌。
※石巻市議会は平成28年10月30日、臨時会で、東日本大震災の津波で死亡・行方不明になった宮城県石巻市大川小の児童23人の遺族への損害賠償を市と宮城県に命じた仙台地裁判決を巡り、判決を不服として控訴する市提出の関連二議案を賛成多数で可決した。
市は期限の11月9日までに控訴した。
「予想だにしなかった結果。言葉も出ない。最大被災地の石巻では子どもの命を見捨てるということか」
大川訴訟原告団長の今野浩行さん(54歳)が、到底受け入れがたい市の控訴に憤っていた。
(今野さんは、同小学校6年生だった長男大輔君(当時12歳)を亡くした遺族)
石巻市議会の控訴可決については、地元市民にも賛否両論がある、というよりか、これまで私が乗せたお客さんのほとんどは控訴に賛成という声ばかりだった……。
その理由は、
「14億以上の賠償金は全部市民や県民の税金だから」
「大川小学校だけが被災したのではない。あれだけの津波なんか、誰も予想なんかできねえっちゃ。だったら、宮城県で被災死した遺族全員にも賠償してもらいたい」
だという。
う~ん、県外から来た私にはよく分からん。
ただ、結果が出た瞬間、
「子どもたちを返して」
「ショックで言葉になりません」
「これでは子どもたちが浮かばれない」
「行政や教育委員会、議会がこのような対応をしていたら、今後も学校防災は変わらない」
「誰を信用すればいいんだ」
市議会の良心を信じていた原告遺族は失望し、傍聴席で泣き崩れたという。
なお、亀山紘市長は臨時会で、
「津波の予見と結果回避の可能性の2点については受け入れ難い」
「小学校は指定避難所で教員は大規模津波を予見できなかった。児童だけでなく地域住民を含む100人以上が7分間で崩壊の危険がある裏山に無事に避難できたとは考えていない」
「現場にいた先生に重い責任を負わせるのは酷だ」
と、控訴の理由を述べていた。
ところで、大川小訴訟遺族へ賠償する判決に納得がいかないという石巻市民は、次の記事を読んでほしい。14億なんて額なんか、ぶっ飛んでしまうくらいの多額な復興予算が流用されていたのだ。
*被災地復興に使われない復興予算(火事場泥棒予算)
・総務省
【8億円】「風評被害払拭」というお題目でNHKへ流れる。
・法務省
【3千万円】刑務所での職業訓練事業。
・公安調査庁
【2千800万円】調査活動用の乗用車を14台購入。
・外務省
【72億4千700万円】アジア大洋州地域、北米地域との青少年交流。
・財務省(国税庁)
【12億円】+【6億円】+【3億円】国税庁関連施設の耐震化。
・厚生労働省
【約千億円】震災等緊急雇用対応事業(被災地外の分)。
・農林水産省
【約1.400億円】森林整備加速化・林業再生基金……。
と、キリがないが、他にも、まだまだ、たくさんあるので、詳しく知りたければ、国に訊いてほしい。
――現在の大川小学校――
本年2月11日の月命日に、私は大川小学校へ焼香に行ってきたが、現在の大川小学校は画像のとおりコンパクトでキレイに整備されていた。
整備される前の大川小学校は、当時の大惨事の様子がリアルに伝わり、ご案内する被災地視察旅行者には、大変インパクトを与えることができたのだが、ご遺族の方々にしてみれば、いつまでも当時のままでは心の傷をえぐられるようで、たまったものではないだろう。
※次の画像は石巻市震災遺構となった旧大川小学校や工事中の伝承資料館と、児童や教職員たちが三角地帯方面へ避難中に被災死した場所の慰霊碑及びその周辺。
2月11日写真撮影 河村 龍一
震災遺構もいいが、ご遺族への配慮が大切だ。
しかし、悲劇は決して風化させてはならない。
震災で亡くなられた児童と教職員の皆さまのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
河村 龍一