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ひとり ときどき ふたり旅 さんぽ 壱

送ることば 2014年 盛夏

1929年(昭和4年) 鹿児島県 加世田市で生を受け


男3人 女4人の 7人兄弟の長男として


家を守ってきました




世は 大東亜戦争(第二次世界大戦)


徴兵を命ぜられた わけでもないのに


15歳で 帝国海軍に志願






横須賀 海軍機関学校(大楠海軍機関学校)」に


1945年1月29日に 入校









ここでは 特攻兵器である


「海龍(かいりゅう)」「蛟龍(こうりゅう)」などの 潜水艇


特攻要員の教育も 行われていたと






これは大日本帝国海軍の 特殊潜航艇の一種で


敵艦に対して 魚雷もしくは 体当りにより


攻撃を行う 二人乗りの 有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器




記憶では この潜航艇に 父が 乗ったかもしれないと


これで体当たりしていれば 私らは生まれているはずもなく


その後 本土決戦に向けて 教育内容は縮小 繰り上げ卒業が行われたと




鹿児島の基地に 赴任する途中 呉港を通るとき


列車の窓から見える「戦艦大和」を 機密のため見るなと


列車木窓をおろし 暗くしたと 語っていたこと




その後、「鹿屋航空隊」
 
 
帰ってこない 特攻機を見送る日々


兵舎では「ケツバット」


「軍人精神注入棒」と称し 痛い思いをしたと




入隊してから7ヶ月後


昭和20(1945)年8月15日に 終戦を迎え


数日後 「海軍鹿屋航空基地」から


同郷と 物資を「上陸用舟艇」に乗せ


錦江湾を渡り 「喜入」の海岸に乗り上げ


郷里の加世田へ山を越え 帰ったと


今の「知覧特攻平和会館」近くを歩き


ふるさとに たどり着いたそうです






その後は 大工や農作業に従事し


昭和25(1950)年に 陸上自衛隊の前身である


「警察予備隊」が発足し 21歳で入隊し






「保安隊」創隊を経て 1954年陸上自衛隊に入隊






これまでも このあとも 実家の生計を立て 働き続けてきました



入隊後は 豊川駐屯地や関東の駐屯地 第8師団(熊本)で勤務


職種は「武器隊」(火器・車両の整備及び不発弾処理。職種標識の色は緑。)


想い出すのは 首にみどりのマフラーを巻いて カッコ良かったこと




1968年ころ 不発弾処理で目の前で爆発し からだ中に破片が入り


包帯だらけの 父を見たこと





破片の刺さる位置が 少しでもはずれたら 死んでいた



1969年 新居を構え タヌキの出る藪の中


私は毎日毎日 学校の帰りに 家が出来上がる様子が楽しみで


何度も 見に行ったことを 想い出します






東京に来たときは 靖国神社の


「遊就館」の戦没者の 遺影のパネル前で


同郷の人を見つけ 手を合わせて 泣いていたことを想い出します




母を62歳で亡くし ひとり 弟夫婦の手助けで 過ごし




怖かった父 話しをすることもなく育った 18年間


働いてからも 仕事の話しをしても アドバイスもなく




弟とも 腰痛腹部大動脈瘤遺伝
 
腹部を切開大動脈を人工血管に取替えた 大手術


徘徊と認知症を患い 家族を思いだすこともなく


会えば 辛い日々



退職前に施設に赴き 挨拶をした日は


私を施設内で誇らしく 紹介してくれた父


翌年には 私のことも 孫の名も 忘れさり



2014年 暑い日


85歳で 胸部 大動脈瘤破裂で他界




父が毎日通った 家から遠い 母の入る墓を


弟・甥の近くに 移設することができ



草葉の陰から


父も母も 喜んでくれていると思います




父が建てた実家の地に


甥が家を建て


庭石や 裏口の金戸を


当時のままに 残し



今もふたりが


孫とつれあいと

ひ孫を 見守ってくれていることでしょう



父に あらためて 送ります 拝


上野 不忍池で撮影
 
 

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