自分のエネルギーが枯渇してくると
誰かから奪いたくなってしまう
見返りを求めたくなってしまう
けれども、そうではなく
『循環』を意識する
大きな流れが在るのを感じて
その中に身を置いて
『循環』を感じる
下記、個人的体験談ーーー
【消費される自分から、循環する自分へ】
『気を練る・文章を練る』
このふたつは、よく似ている。
文章を発表したとき、読者から同じようなエネルギー量が返ってくることがある。
そのとき、わたしの文章は「消費された」のではなく、「読まれた」のである。
*
はじめに、「自分が消費される感覚」について書こうと思う。
「欲を満たすためだけに、《簡易で便利な部品》として使い捨てられるような感覚」と言い換えてもいいだろうか。
わたしは、何かを作って発表したときに、「客に消費されている」と感じることがとても多かった。
でも、わたしの『作り方』がまずかったのだと思う。
だって、「自分の身を削って」作っていたんだもの。
睡眠食事、健康、プライバシー、それらを度外視した制作を続けてきた。
現実逃避的で、つまり、生きることから逃げていた。
出来上がったものを発表したとき……どうだろう。
身を削って作ったものを、「消費」されて、また身を削られる感覚を味わう。
もっと恐ろしいのは、誰かの評価で、自分の価値が大きく左右される感覚を味わうこと。
上昇気流に乗せられて舞い上がり、そのまま地面にストーンと落とされる、みたいな。
さらに、自分を害して作ったものは、作品そのものが、脆い。
どんなに一生懸命だったとしても。どんなに「よくできた」と信じ込んでも。
表面だけカタチにしたって、ただただ脆い。
どうしても、脆い。
その原因は、具体的に言えば『練っていない』ことだ。
たとえば。
『気を練る・文章を練る』
このふたつは、よく似ている。
気を練ると、空気に弾力が生まれるだろう。
それと同じで、文章を練ると、弾力のある丈夫な文章になるんだ。
読み手は、その奥行きを、感じる……。
……そういうとき、想いが届く、ということが起きるのかもしれない。
でも、練るには、まずちゃんと自分を観なきゃ無理なんだよ。
自分を無視して、丹精込めて練ることなんて、できないんだよ。
*
さいごに、「循環」について書こう。
これは、ただ、実感だ。
睡眠食事、健康、プライバシー、これらを優先とし、練って書いた文章を発表すると、読者から同じようなエネルギー量が返ってくることがある。
そのとき、わたしの文章は「消費された」のではなく、「読まれた」のである。
読んでもらえるように書くと、読んでもらえる。
たったそれだけのことだが、やっとわかった。
読んでもらえると、うれしくて、また書こうと思う。
自分のために、読者のために、また練ろうと思う。
きっと、何かを創ることの喜びは、ここにあるのかもしれない。
以上ーーー
そうして、わたしは、また筆を取る
作者と読者のエネルギー交換
愛の循環