シャーマンの呼吸

自然と人を繋ぐ

シャーマンの弟子

作品のお知らせ・更新の予定

2024-06-02 00:00:00 | 創作術

 

みなさん、サンダー・ウルフのブログにお越しいただきまして、ありがとうございます。

わたくしの都合により、6月は更新をお休みいたします。

再開は7月を予定しております。

 

 

ここで作品のお知らせをいたします。

 

 

長編小説 『桜花爛漫・上』|江戸川 夏

長編小説 『桜花爛漫・上』|江戸川 夏

三十二歳の自分だったら、十四歳の自分を抱きしめてあげることができるだろうか。 そうだとしたら、二十二歳の俺には、彼らを会わせることくらいはできるだろう。 ...

note(ノート)

 

 

 

数年前に「勢いで書いた」小説を、改めて書き直したものです。

 

正直に言うと、「楽しんでもらうために書いた」ものではなく、「セルフヒーリング」の結晶です。

それでも、サバイバーやスライバーたちのピア、仲間、互いのサポート……そういったものに繋がればと願っております。

解離性同一性障害/毒親/自傷行為/詩/LGBT/HSP……などの要素が含まれます。

*実話をもとにしたフィクションです。


架空の痛み

2024-04-28 00:00:00 | 創作術

 

1年前、脇腹の皮膚がひどく腫れたことがあった。
そして今、今度は肩甲骨のあたりで腫れてしまった。


どうしてその場所に炎症が起きたのか。


『ウソみたいな話』


脇腹は、1年前に書いてた小説の中で、あるキャラが怪我をしていた場所。
肩甲骨は、今書きかけている小説で、別のあるキャラが怪我をしている場所。

 

 

 

 

 




痛みとの対話の中で知るのは、「かまってほしいから症状を出す」とか「愛されたい」というのがテンプレートだということ。

わたしの場合、自分の身体だけじゃ飽き足らず、それを空想や小説の中でも繰り返す。キャラに怪我をさせて、それを癒すルートを幾度も辿りたいのだ。


だから、単に「執筆に没頭していて、症状が出るまで疲れに気づかないんだ」というペラペラの視点だけで止めるものではない。

さらに、痛みを小説の中で独り静かに解消し続けてきたゆえに、「キャラと同じ場所に症状が出た」ことに対して、「簡単に『キャラとの同一化』と片付けて悦に浸ってはならない」という警鐘。


そして、今回考えたのは。
癖で、「小説化」という外在化した昇華の試みを介したものの、結局「身体症状」として回帰され、この身体に痛みが現れたのではないか、という見解。

つまり、「昇華する必要がある痛み」など、すでに無いのにも関わらず、癖で『小説化』したことにより、架空の痛みが生じてしまい、「架空の痛み」はふよふよと彷徨うばかりで、宿り主は私しかいないというワケだ。

 

 

 



執筆活動が自傷行為であってはならない。
犠牲でもいけない。
もうトラウマを書く必要はない。

じゃあ何を描けばいいのか。
もっと自由に選び取れ。
愛するものたちを。
心のある道を。


彩雲と、不思議な雲たちに励まされたコト。

涙の膜で、夕陽が虹色の筋をつくったコト。

コンクリートのヒビが、ハートになってたコト。

 


ここ数年で、様々な角度から、創作活動のベクトルの変化を突き付けられている。




 


【遊ぶ・楽しむ・クリエイティブ】

2024-02-11 00:00:00 | 創作術

 

まずネガティブなことを考えてしまう。

ときに重箱の隅をつつくように、わざわざネガティブな部分をクローズアップさせてしまう。

そうして、結局なにもすることができない。

 

楽しむ余裕がないなんて、悲劇だよな。

 

こないだ、『自傷思考』というテーマの文章を書いた。

それ以来、自分の在り方が変わってきた。

 

 

 

 

甘いものを食べる。

甘いものを食べに出かけてみる。

 

こうしたことを、今まで全くしたことがなかったワケじゃない。

でも、質が、なんというか、すごくシリアスだった。

 

理屈を持ち出して言い訳をしなければ、ただ遊ぶことさえできず。

何か正当な理由をつけなければ、ただくつろぐことさえできず。

計算して合理的としなければ、ただ美味しいものを食べることさえできず。

 

そういうときのわたしは、罪悪感が服を着て歩いてるようなものだった。

 

『何もしないでいること』と同じくらい、『遊び楽しむこと』ができなかった。

そんな自分に、気づくことさえ、なかったなんて、悲劇だよな。

 

 

 

 

 

少しだけ掘り下げる。

 

例えば、食事中。

隙を作ることが、できない。

常に神経を張り巡らせる癖が抜けない。

他人の気を損ねないように、と。

そういう『他人の視線』が内在化していて、『自分を監視する自分の視線』ができてしまっていた。

だから、ひとりでいるときでさえ、常に気を張ることになってしまったんだ。

 

悲劇だよな。

 

それならば、意図的に、隙を作ればいい。

隙をなくしているのは、自分なのだから。

自分で、隙を作れるはずなのだ。

それは、「余白」や「遊び(カラの部分・余裕を含ませる)」に繋がる。

 

 

 

 

 

悲劇だったよな。

 

ちいさな気づきの積み重ねによって、大きな変化を感じるこの頃だ。

朝起きただけでいちいちシリアスになってる自分、隙あらば勝手に悪い想像をしている自分、……それら「自動思考」を「自傷思考」と名付けた甲斐あってか、「あ、自傷思考だ」と気づくのが速くなった。ポイっと捨てることもできるようになった。

 

悲劇の舞台から、降りることができる。

 

 

 

 

やってみたいことを、やってみる。

 

人の評価を気にする前に、純粋な好奇心で探求の領域へ。

 

 

 

 


セルフヒーリングから創造へ

2024-01-08 00:00:00 | 創作術
 
過去を再構築して物語化するのではなく
現在地点からある未来if地点へのストーリーを構築する
 
ーー
 
思い出さなくていいこと、忘れてもいいこと。
…というのがキーワード。
 
ーー
 
自らの傷をえぐって、過去の場面を何度も再演するな。
「自分の傷を見つめてケアすること」と「傷ついた場面を繰り返し演じて固定化する」のは、全然違う。
 
 
それをふまえれば、今後は、どちらも書いていけよう。
過去を再構築して物語化するのも。
現在地点からある未来if地点へのストーリーを構築するのも。
 

どれだけ愛で紡げるか

2024-01-06 00:00:00 | 創作術

自分のエネルギーが枯渇してくると
誰かから奪いたくなってしまう
見返りを求めたくなってしまう

けれども、そうではなく
『循環』を意識する

大きな流れが在るのを感じて
その中に身を置いて
『循環』を感じる

 

 

下記、個人的体験談ーーー

 

【消費される自分から、循環する自分へ】

 

『気を練る・文章を練る』
このふたつは、よく似ている。

文章を発表したとき、読者から同じようなエネルギー量が返ってくることがある。
そのとき、わたしの文章は「消費された」のではなく、「読まれた」のである。

 

 

はじめに、「自分が消費される感覚」について書こうと思う。
「欲を満たすためだけに、《簡易で便利な部品》として使い捨てられるような感覚」と言い換えてもいいだろうか。

わたしは、何かを作って発表したときに、「客に消費されている」と感じることがとても多かった。
でも、わたしの『作り方』がまずかったのだと思う。
だって、「自分の身を削って」作っていたんだもの。

睡眠食事、健康、プライバシー、それらを度外視した制作を続けてきた。
現実逃避的で、つまり、生きることから逃げていた。

出来上がったものを発表したとき……どうだろう。
身を削って作ったものを、「消費」されて、また身を削られる感覚を味わう。

もっと恐ろしいのは、誰かの評価で、自分の価値が大きく左右される感覚を味わうこと。
上昇気流に乗せられて舞い上がり、そのまま地面にストーンと落とされる、みたいな。

さらに、自分を害して作ったものは、作品そのものが、脆い。
どんなに一生懸命だったとしても。どんなに「よくできた」と信じ込んでも。
表面だけカタチにしたって、ただただ脆い。

どうしても、脆い。
その原因は、具体的に言えば『練っていない』ことだ。

たとえば。
『気を練る・文章を練る』
このふたつは、よく似ている。

気を練ると、空気に弾力が生まれるだろう。
それと同じで、文章を練ると、弾力のある丈夫な文章になるんだ。
読み手は、その奥行きを、感じる……。
……そういうとき、想いが届く、ということが起きるのかもしれない。

でも、練るには、まずちゃんと自分を観なきゃ無理なんだよ。
自分を無視して、丹精込めて練ることなんて、できないんだよ。

 

 

さいごに、「循環」について書こう。
これは、ただ、実感だ。

睡眠食事、健康、プライバシー、これらを優先とし、練って書いた文章を発表すると、読者から同じようなエネルギー量が返ってくることがある。

そのとき、わたしの文章は「消費された」のではなく、「読まれた」のである。

読んでもらえるように書くと、読んでもらえる。

たったそれだけのことだが、やっとわかった。

読んでもらえると、うれしくて、また書こうと思う。

自分のために、読者のために、また練ろうと思う。

きっと、何かを創ることの喜びは、ここにあるのかもしれない。

 

以上ーーー

 

そうして、わたしは、また筆を取る

 

作者と読者のエネルギー交換

 

愛の循環