1年前、脇腹の皮膚がひどく腫れたことがあった。
そして今、今度は肩甲骨のあたりで腫れてしまった。
どうしてその場所に炎症が起きたのか。
『ウソみたいな話』
脇腹は、1年前に書いてた小説の中で、あるキャラが怪我をしていた場所。
肩甲骨は、今書きかけている小説で、別のあるキャラが怪我をしている場所。
痛みとの対話の中で知るのは、「かまってほしいから症状を出す」とか「愛されたい」というのがテンプレートだということ。
わたしの場合、自分の身体だけじゃ飽き足らず、それを空想や小説の中でも繰り返す。キャラに怪我をさせて、それを癒すルートを幾度も辿りたいのだ。
だから、単に「執筆に没頭していて、症状が出るまで疲れに気づかないんだ」というペラペラの視点だけで止めるものではない。
さらに、痛みを小説の中で独り静かに解消し続けてきたゆえに、「キャラと同じ場所に症状が出た」ことに対して、「簡単に『キャラとの同一化』と片付けて悦に浸ってはならない」という警鐘。
そして、今回考えたのは。
癖で、「小説化」という外在化した昇華の試みを介したものの、結局「身体症状」として回帰され、この身体に痛みが現れたのではないか、という見解。
つまり、「昇華する必要がある痛み」など、すでに無いのにも関わらず、癖で『小説化』したことにより、架空の痛みが生じてしまい、「架空の痛み」はふよふよと彷徨うばかりで、宿り主は私しかいないというワケだ。
執筆活動が自傷行為であってはならない。
犠牲でもいけない。
もうトラウマを書く必要はない。
じゃあ何を描けばいいのか。
もっと自由に選び取れ。
愛するものたちを。
心のある道を。
彩雲と、不思議な雲たちに励まされたコト。
涙の膜で、夕陽が虹色の筋をつくったコト。
コンクリートのヒビが、ハートになってたコト。
ここ数年で、様々な角度から、創作活動のベクトルの変化を突き付けられている。