シャーマンの呼吸

自然と人を繋ぐ

シャーマンの弟子

ケアの相乗作用とシャーマニズム

2024-04-03 00:00:00 | 備忘録
身体をケアすることによって、身体と世界のつながりを感じられる瞬間が増えてきた。
 
 
・自分の物語に閉じこもらない、視点。
俯瞰的視点のベクトルは、自然界。そこから宇宙に繋がる感覚。
 
・見えない存在を信じること。
孤独感の落ち着きどころ。そのための身体感覚を育て、自分の身体と導きを信じる。
 
・身体との対話から、地球との対話へ。
身体と地球の対話。
 
・呪文、魔法、儀式、鍛錬。
身体感覚の変化から現実の変化を見ること。
 
・バイブレーションの発見。
薄まる自我とワンネスへの手がかり。
 
・愛を自らの身体に出現させること。
地球で生きること。
 
 
 

『自分のための時間を持つ』

2024-03-10 00:00:00 | 備忘録

『自分のための時間を持つ』ということは、

自分のケアをすること・癒しの時間をとることだけにとどまらない。

 

『自分のための時間を持つ』ということは、

現実逃避することとも区別しておくべきだろう。

 

『自分のための時間を持つ』ということは、

やりたいこと・やるべきことに時間を当てることだ。

 

企画を明確に、具体的にしておくと、やりやすい。

人間というのは迷子になりやすいし、知らぬ間に後戻りしてしまうなんてこともよくあるからな。

 

ある程度、明確なビジョンを描き、書き留めておくことだ。

 

 

 

やりたいことが、あるだろ。

今生でやるべきことが、あるだろ。

今生でやらなきゃいけないことが、あるだろ。

 

それを、もう、とっくに知っているだろ。

 

それを実現をするために必要なことを、

ひとつひとつ失敗して積み重ねてきたんじゃないのか。

 

 

進め

鍛錬とともに

もっと深みへ

更なる高みへ!

 

 

 


【観察について】その2

2024-03-03 00:00:00 | 備忘録

 

わたしにとって、遥かな救い

 

 

『観察』は

 

自分に対する『思考』ではない

 

『評価』でも『ジャッジ』でもない

 

観察は、ただ観察ということでしかありえない

 

このことは、わたしにとって、遥かな救いだ

 

 

 

それで、観察の視点には、何があるのか

 

静かな実感

 

身体にある事実

 

……なんとでも言えるが、なんとも言葉にならない

 

(今度一生懸命言葉にしてみるよ)

 

 

 

 

 

丁寧に、観察すること

 

観察の精度を、より細やかにすること

 

日々、誤魔化せない自分との、鍛錬のよう

 

……これを『修行』と呼ぶんだろうか?

 

 

 

 

観察は、日頃自分を貶める『思考』とは一線を画する

 

『評価』とも『ジャッジ』とも、似て非なるものだ

 

観察は、ただ観察ということでしかありえない

 

しかし、そこには、自分に対する『思いやり』のような時間が流れている

 

これらのことは、わたしにとって、遥かな救いだ

 

 

*追記

 

 

この地味で地道な探求は、ひとりではできない。

自分の身体に丁寧に触れることによって、『麻痺していた痛み』が蘇る瞬間が、幾度となく訪れる。

それは、とても孤独な体験である場合が多い。

 

けれども、わたしはこのような地道な稽古・修行を続けていこうと思えるようになった。

 

 

孤独な痛みの先に、「癒し」という言葉じゃ足りないくらいの平和があるのだと、身体がわかっている。

そして、このような体験を積み重ねてゆくことができる場を、つくり続けてくれている師匠が居る。

さらに、その場に集う仲間たちが居る。

 

ひとりじゃできない。

 

たった今この瞬間、『ひとりじゃできない』と書いた自分に感動している。

 

 

 


【観察について】

2024-02-25 00:00:00 | 備忘録

 

自分を観察することでしか、世界は変わらない。

 

 

 

『変わろうとしなくていい』『そのままでいい』というのが、【甘い毒】だと気づくのは、いつだろう。

自分自身を放置していいのだと勘違いして……。

都合のいい作用だけを盲信して……。

同じ苦しみを飽きるほど繰り返して……。

ついに……死を予感した時。

かもしれない。

 

 

 

 

 

わたしの薬は、庭仕事。

土を触る。

ふっくら柔らかければ、安心する。

固ければ、どうすればいいかを考える。

身体を触る。

ふっくら柔らかければ、安心する。

固ければ、どうすればいいかを考える。

 

 

よく、「変わろうとしなくていい」「そのままでいい」という言葉を耳にする。

 

この言葉の、うわ澄みだけを啜ってしまったならば、毒だ。

 

だって、自分を傷つけ続ける自分は、変わらなくていいのだろうか。

 

固く締まった土を、変えずに、いったい何を育てようというのか。

 

身体だろうと、土だろうと、放置して良くなることは、ない。

 

 

あまりの固さに、どうしようもなくて、逃げたとして。

 

そのあと、時が経って自然に柔らかくなっているなんてことは、きっとない。

 

 

丁寧に触れ、注意深く観察し、働きかける。

そういう積み重ねでしか、変わらない。

 

 

 

 

人は面倒くさがりで、か弱くて、怖がりだから、「嫌な感じがするとき」ほど目をそらし、観察を怠る。

 

あるいは、痛みが大きくなりすぎてしまって、観察すること自体、怖くなる。

 

えてして、疲れ果て、劇薬の市場をうろつく。

 

そこにあるのはたいてい、緻密さ複雑さや深さを欠いた、うわ澄みだ。

 

うわ澄みは口当たりがよく、スッと飲める。

 

ときには、激変する自分を錯覚することさえある。

 

ある種の解放感、快感の要素もある。

 

だから、あらゆるビジネスのカモになる。

 

「楽に生きたい」という切実な思いは、搾取されてしまう。

 

 

 

『変わろうとしなくていい』『そのままでいい』というのが、【甘い毒】だと気づくのは、いつだろう。

 

 

 

土を触る。

身体を触る。

そして、言葉を咀嚼する。

 

 

天に任せたつもりで自棄になっていないかい。

 

何もせず柔らかくなるなんてことは、ない。

 

不調を自覚するとき、つらいとき、もう逃げたいと思うときにこそ、

 

己に触れ、注意深く観察し、働きかける。

 

そういう積み重ねでしか、自分は変わらない。

 

 

自分を観察することでしか、きっと世界は変わらない。