シャーマンの呼吸

自然と人を繋ぐ

シャーマンの弟子

【毒親から、わたしの身体を奪還する】後編

2024-04-12 00:00:00 | 毒親サバイバー/スライバー

 

ただ生きるために、生きてきた

 

だって、きっと、いつか……

 

 

【ハッピーエンドになったらすべてを話せる】

 

 

 

 

 

前回の記事の続きです。

さて、そろそろまとめよう。

……もうまとまるかわからないけれど。

 

 

 

 

ハッピーエンドをちんたら待っている間に、何かよくわからないものに殺されてしまうような気がした。

 

・相手の思い通りに振る舞えず、失敗を注意されると、異常な恐怖に襲われる。

・自分の恐怖心を相手に悟らせないように、『大丈夫』を全身全霊で演じる。

・相手の思い通りに振る舞うための、過剰な緊張、極度の疲労。

 

これをループしている。

 

 

不眠、不安定な食欲、集中力低下、注意散漫、感覚鈍麻、麻痺、思考停止、記憶力低下、動悸、頭痛、腹痛、大丈夫に振舞う笑顔…………限界が来ては、僅かにセルフケアをして、限界が来ては、限界を麻痺させて、生きる。

 

無理だ。

 

日常生活にも、社会生活にも、支障がある。

 

ようやく、映画のようなハッピーエンドなどないと、わかった。

 

だから、こうして、言葉にして、語ることにした。

 

 

 

『わたしの身体は、アンタのものじゃない』

 

『わたしのこころは、アンタのものじゃない』

 

『わたしの人生は、アンタのものじゃない』

 

『わたしは、人形じゃない』

 

『わたしの身体は、わたしの命は、わたしのものだ』

 

『わたしは、生きている』

 

わたしのからだは、わたしのもの。

 

 

 

 

ひとまず、ここまで。

 

【毒親から、わたしの身体を奪還する】

 

このプロセスに関わってくれた仲間たち、友人たち、本当にありがとう。

 

わたしは、今、自由の入り口に立ったような感覚がある。

 

けれども、それで万々歳というわけにはいかない。

 

自分の、心身の反応と、地道に向き合い、ひとつひとつ対処して生きていくのだ。

 

 

――

 

 

このテーマを書き始めたとき、腰が痛かった。

 

でかいアジサイの植え替えをしたからかもしれない。

 

 

身体の要が痛い。

 

心の要が痛い。

 

きっと、そういうことだった。

 

 

書き終えた今は、腰の痛みはない。

 

やっぱりアジサイのでかい鉢を持ち上げたせいだったかも。

 

 

 

ーーー以上。

 

 

 

 

ただ生きている柔らかさに触れ、自分の存在を感じる。

自らをいとおしむ、いつくしむ。

静かに祈る。

 

言葉に尽くせない陰りがある中でも。

わたしは、今、生きていて楽しいです。

 

こうして、今を生きていられることに、感謝を。

身体を通して導いてくれた師匠に、心から感謝を。

 

ありがとうございます。

 


【毒親から、わたしの身体を奪還する】前編

2024-04-11 00:00:00 | 毒親サバイバー/スライバー

これから記すのは、2年半くらい前の、当時の文章だ。

 

 

ーーー

 

 

 

わたしのからだは、だれのもの。

 

ここにあるからだは、だれのもの。

 

 

―――

 

 

殴られたことはない

死ね消えろと言われたことはない

生活に必要なものを買ってもらえなかったことはない

存在を無視されたことはない

性的な侵入をされたことはない

 

だからわたしの家庭は平和なはずなのだ。

 

 

――

 

 

とりあえず、8年前のことから、語り始めよう。

 

わたしは、大学で福祉を勉強していた。

そこで見つけたのは、〈サバイバー〉という言葉。

どういうわけか、納得できないままその言葉をよりどころにしていた。

 

あの頃、身体的虐待・心理的虐待・性的虐待・ネグレクトのカテゴリーとは別に、「やさしい虐待」という言葉があった。

それは、教科書には記されない、とてもちいさな内容の本だった。

 

~~

 

『~したら?』

『~でしょう?』

 

という誘導によって、子どもを操る親

それは、「あなたのために」という圧倒的善意の姿で存在している

 

~~

 

そんなようなことが書いてあった。

わたしは、「親子関係」が「支配関係」であることに気づいた。

 

ここで、『奪還』の言葉に繋げてみよう。

奪還とは、『相手に奪われたものを、奪いかえす』という意味だ。

 

「支配関係」であること、すなわち。

わたしの、こころも、身体も、人生も、母の所有物。

母が生きるための、道具。

わたしは、生きることのすべてを、母に奪われていたということだ。

 

 

 

このことを、もう少し言い換えて、今度は幼少期にさかのぼろう。

 

わたしは、とてもよくできたヒト型愛玩人形。

ヒトの形をしており、感情を持っており、成長する。

なにより、ちゃんと母の腹から産まれるのだから、本当によくできたアンドロイドである。

 

「あんたがいいって言ったのよ」

「どうしてさっきと違うことを言うの」

 

カギカッコは、すべからく怒鳴り声である。

文字がウザくなるので、わざわざ再現する表記はしないことにする。

 

ヒト型愛玩人形が意のままにならないと、母はわたしを叱った。

いや、もはや叱るという行為ではなかった。

感情をぶつけられたのだ。

人形を乱暴に殴るみたいに。

 

「どうしていうことを聞かないの」

「いうことを聞きなさい」

 

『教育』という正当性でもって、『支配』された。

思えば、恐怖によって支配するという、典型的なやり方だった。

 

でも気づかなかった。

 

だって

 

殴られたことはない……と思う

死ね消えろと言われたことはない……と思う

生活に必要なものを買ってもらえなかったことはない……と思う

存在を無視されたことはない……と思う

性的な侵入をされたことはない……と思う

 

だからわたしの家庭は平和なはずなのだ。

まだ思い出さないことの方が多いけれど。

 

 

過緊張からくる症状だけが、子どもながらずっと謎だった。

自分が変なのだと思っていたから、その謎が解けたこと、今はホッとしている。

でも、たぶん、超絶ムカついてもいる。

 

 

そういえば、小学校の給食の、生姜焼きは旨かった。

あとワインゼリー。

 

 

ところで、場面緘黙をご存じだろうか。

多くの事例では、『家ではしゃべれるが、外ではしゃべれない』というもの。

だが、わたしの場合は、『外ではしゃべれるが、家ではしゃべれない』というものだった。

中学生の頃である。

 

「どうしてしゃべらないの」

「しゃべりなさいよ」

「耳きこえないのね」

「何を考えているの」

「そんなんじゃ友達いなくなるよ」

 

わたしは、学校では学級委員や、体育祭実行委員をしていた。

 

そういえば、ずーっとリレーの選手だったな。

テニス部の合宿で、砂浜に寝転んで、空と海の境目がわからない綺麗な星空を見た。

 

今30歳だけど、14歳のあの星空を、忘れたことはない。

 

 

高校生になると、いよいよつらくなってきた。

子どもの意志など微塵も尊重しない、と深く承知させられた。

つらいな、と自覚しはじめた。

 

リストカットをしてみた。

金八先生や夜回り先生が流行っていた。

同世代の病みブログがあふれていた。

薬をいっぱい飲んだらクラクラした。

 

でも、わたしが最初に保健室に駆け込んだのは、『同性愛』の悩みからだった。

あの恋がなければ、誰にも気づかれずに自傷行為をし続けていたかもしれないと思うとゾッとする。

 

しかし、自傷行為にたいした手応えは感じなかった。

保健室からスクールカウンセラー、精神科へと繋がった。

 

けれど、わたしが思ったのは、「結局誰も助けてくれない」ということだった。

 

話は聞いてもらえる。

でも、『保護してもらえない』と学んだ。

 

一過性のストレス反応だと診断されて終わった。

 

おそらく、すでに記憶を封印していたか、つらさの根本を自覚していなかった。

自分が苦しいということ、その原因が親の離婚であること。

そのふたつ以外に、言語化することなどできなかった。

 

 

18歳になった。

わたしは児童虐待で扱われる年齢ではなくなった。

もう助けてもらえない、と思ったことを、今でも覚えている。

 

 

そのころ、ジャイアンみたいな理論で、母にお金を搾取された。

 

壊れた人形に使う金はない、ということだったのかもしれない。

あるいは、金さえ奪えば、まだ自分の手元にいてくれる、なんて思ったのかもしれない。

それは脅しだ。

でも、クソがすることの意味を考えるなんて馬鹿馬鹿しいから、お金のことを考えるのはやめた。

 

ところが、物理的距離をとったにもかかわらず、恐ろしいことは終わらなかった。

母は、それでも「子を想う母」を演じ続けたのだ。

気味が悪いほどに。

もはやストーカー行為だった。

 

そうまでして、『母』を演じ続ける彼女。

 

それはそっちの事情だろう。

「子を想う母」を演じ続けなければならなかった事情があったんだろう。

 

これは慈悲ではなく、問題を構造としてとらえた際の客観的事実であると自覚していたい。

 

そのあたりは、またの機会があれば、書くかもしれない。

 

 

 

 

さて、【毒親から、わたしの身体を奪還する】というテーマに戻ろう。

 

先に記したように、ヒト型愛玩人形は、母の所有物なのだ。

わたしの、こころも、身体も、人生も、母の所有物だった。

母が生きるための、道具だった。

 

わたしの解離症状は、幼少期にキッカケがあったんだろうという推測が、可能になった。

 

 

『わたしの身体は、わたしのものじゃない』

 

『わたしは、自分の感覚など、不要なのだ』

 

『この身体は、母の人形だ』

 

 

幼いころから、解離しやすかったに違いない。

 

 

いつだったか、死んであいつを傷つけてやろうと思ったことがあった。

あいつを傷つけるために、自分の命・自分の身体を使って復讐をしたかったのだ。

 

――「おい、ちょっと待て、俺。」――

 

この身体が死んであいつが傷つくかはわからない。

あいつが更なる『かわいそう』を演じる材料にされる可能性もある。

 

――「死んでからもヒト型愛玩人形かよ。」――

 

そんなの、まっぴらごめんだ。

どうしようもなく、絶望の中で、自死を思いとどまった。

 

 

ただ生きるために、生きてきた

 

だって、きっと、いつか……

 

 

【ハッピーエンドになったらすべてを話せる】

 

 

 

――つづく