シャーマンの呼吸

自然と人を繋ぐ

シャーマンの弟子

【観察について】

2024-02-25 00:00:00 | 備忘録

 

自分を観察することでしか、世界は変わらない。

 

 

 

『変わろうとしなくていい』『そのままでいい』というのが、【甘い毒】だと気づくのは、いつだろう。

自分自身を放置していいのだと勘違いして……。

都合のいい作用だけを盲信して……。

同じ苦しみを飽きるほど繰り返して……。

ついに……死を予感した時。

かもしれない。

 

 

 

 

 

わたしの薬は、庭仕事。

土を触る。

ふっくら柔らかければ、安心する。

固ければ、どうすればいいかを考える。

身体を触る。

ふっくら柔らかければ、安心する。

固ければ、どうすればいいかを考える。

 

 

よく、「変わろうとしなくていい」「そのままでいい」という言葉を耳にする。

 

この言葉の、うわ澄みだけを啜ってしまったならば、毒だ。

 

だって、自分を傷つけ続ける自分は、変わらなくていいのだろうか。

 

固く締まった土を、変えずに、いったい何を育てようというのか。

 

身体だろうと、土だろうと、放置して良くなることは、ない。

 

 

あまりの固さに、どうしようもなくて、逃げたとして。

 

そのあと、時が経って自然に柔らかくなっているなんてことは、きっとない。

 

 

丁寧に触れ、注意深く観察し、働きかける。

そういう積み重ねでしか、変わらない。

 

 

 

 

人は面倒くさがりで、か弱くて、怖がりだから、「嫌な感じがするとき」ほど目をそらし、観察を怠る。

 

あるいは、痛みが大きくなりすぎてしまって、観察すること自体、怖くなる。

 

えてして、疲れ果て、劇薬の市場をうろつく。

 

そこにあるのはたいてい、緻密さ複雑さや深さを欠いた、うわ澄みだ。

 

うわ澄みは口当たりがよく、スッと飲める。

 

ときには、激変する自分を錯覚することさえある。

 

ある種の解放感、快感の要素もある。

 

だから、あらゆるビジネスのカモになる。

 

「楽に生きたい」という切実な思いは、搾取されてしまう。

 

 

 

『変わろうとしなくていい』『そのままでいい』というのが、【甘い毒】だと気づくのは、いつだろう。

 

 

 

土を触る。

身体を触る。

そして、言葉を咀嚼する。

 

 

天に任せたつもりで自棄になっていないかい。

 

何もせず柔らかくなるなんてことは、ない。

 

不調を自覚するとき、つらいとき、もう逃げたいと思うときにこそ、

 

己に触れ、注意深く観察し、働きかける。

 

そういう積み重ねでしか、自分は変わらない。

 

 

自分を観察することでしか、きっと世界は変わらない。

 

 

 

 


メッセージ⑤

2024-02-18 00:00:00 | メッセージ

【視えないものを、信じてく】

何が正しいかなんて、わからない。
だから、自分の感覚を信じられることが大切。

だから、自分の感覚を育ててゆくことが大切。

 



眠ろうとしたときのこと。

背中から、何か伝わってきた。
わたしは草原のような、芝生のような場所に寝ていて、短い草が頬のそばで揺れている。

植物たちのネットワーク。
植物たちとの交信。
植物たちからの情報収集。

あえて言葉にすれば、Wi-Fiのマークのように、扇状の波紋の形をしている。

それが、流れ、届き、伝わってくる。
緑に触れた背中から、波のように伝わる、何か。
その「何か」を言語化できずとも、身体に、魂に、入ってくる「何か」を感じていた。

これから眠ろうとする間際のこと。
この感覚が心地よく、気持ちよいことだけは確かだった。

 



新しい根を、伸ばしてゆく。
細く、白く、少しずつ。
しっかりと養分を吸い上げてゆくために。

グリーンマン。
植生の相乗作用。




『視えない物、信じてゆく』銀色の空/redballoon

 

 

 


【遊ぶ・楽しむ・クリエイティブ】

2024-02-11 00:00:00 | 創作術

 

まずネガティブなことを考えてしまう。

ときに重箱の隅をつつくように、わざわざネガティブな部分をクローズアップさせてしまう。

そうして、結局なにもすることができない。

 

楽しむ余裕がないなんて、悲劇だよな。

 

こないだ、『自傷思考』というテーマの文章を書いた。

それ以来、自分の在り方が変わってきた。

 

 

 

 

甘いものを食べる。

甘いものを食べに出かけてみる。

 

こうしたことを、今まで全くしたことがなかったワケじゃない。

でも、質が、なんというか、すごくシリアスだった。

 

理屈を持ち出して言い訳をしなければ、ただ遊ぶことさえできず。

何か正当な理由をつけなければ、ただくつろぐことさえできず。

計算して合理的としなければ、ただ美味しいものを食べることさえできず。

 

そういうときのわたしは、罪悪感が服を着て歩いてるようなものだった。

 

『何もしないでいること』と同じくらい、『遊び楽しむこと』ができなかった。

そんな自分に、気づくことさえ、なかったなんて、悲劇だよな。

 

 

 

 

 

少しだけ掘り下げる。

 

例えば、食事中。

隙を作ることが、できない。

常に神経を張り巡らせる癖が抜けない。

他人の気を損ねないように、と。

そういう『他人の視線』が内在化していて、『自分を監視する自分の視線』ができてしまっていた。

だから、ひとりでいるときでさえ、常に気を張ることになってしまったんだ。

 

悲劇だよな。

 

それならば、意図的に、隙を作ればいい。

隙をなくしているのは、自分なのだから。

自分で、隙を作れるはずなのだ。

それは、「余白」や「遊び(カラの部分・余裕を含ませる)」に繋がる。

 

 

 

 

 

悲劇だったよな。

 

ちいさな気づきの積み重ねによって、大きな変化を感じるこの頃だ。

朝起きただけでいちいちシリアスになってる自分、隙あらば勝手に悪い想像をしている自分、……それら「自動思考」を「自傷思考」と名付けた甲斐あってか、「あ、自傷思考だ」と気づくのが速くなった。ポイっと捨てることもできるようになった。

 

悲劇の舞台から、降りることができる。

 

 

 

 

やってみたいことを、やってみる。

 

人の評価を気にする前に、純粋な好奇心で探求の領域へ。

 

 

 

 


【自動思考の自傷思考】

2024-02-04 00:00:00 | 仮説・プロセス

 

「思考」は「行為」ではない。

けれども、わたしの自己破壊的な思考パターンは、自傷行為にとても近い。

もはや「自傷思考」と呼んで差し支えない。

さらに、それが「自動思考的」になっているのだ。

 

 

身体とともに在ること。

現実を俯瞰して観察すること。

気分や意識を切り替えること。

身体をケアすること。

 

様々な技を身に付けてきて、今気づくことがある。

わたしの「思考」は、まだ絶望しているのだ、と。

 

 

あらゆる物事の最悪のパターンを、豊か過ぎる想像力でありありとイメージし続けてしまう。

これは、ある面から見れば「予習」なのだ。

(もしもこんな最悪のパターンになってしまったら……)というシミュレーションの役割を持つ。

ただし、幼少の頃より磨きに磨きをかけてきた《最悪のパターンの妄想力》は、どんどんスケールが大きくなり、今ではほとんど現実離れしたものになっている。

ついには「自傷思考」と呼べるほどに、その「想像ストーリー」は「被害的で自己破壊的なビジョン」が多くを占めているのだ。

 

 

自身の内側に向いている自傷思考は、臨界点を迎えてしまうとき、外側に向かって「すべて滅べばいい」というような殺戮的思考にも変化するだろう。

 

 

 

 

 

今までも、自分の自傷思考について、立ち止まって見つめることはあった。

けれども、そんなときは、必ず退行していたように思う。

 

非力な子どもの意識に戻ることで、「わたしには耐えられない」という逃げ道が生まれる。

あるいは、「こんなことわからない」「自分に責任を持てない」など、放棄する感覚だ。

『自分がどれほど自傷的な思考を続けているか』という現実から目を背けるために、退行という自己防衛が働いたのではないだろうか。

 

 

 

「自傷思考してんなぁ」と気づくたび、そんな自分に腐りそうになる。

でも、耐えてみようと思うよ。