『コツコツ生きてきたあなたへ』
楽しんでね
ーー
燃やし尽くしてきた「古い自分」
真っ白な灰が、土の上に広がる。
灰は、自分。
コツコツ分解する微生物たちも、自分。
栄養満点の土壌。
あとは、この養分を吸い上げるだけ。
光を求めて、枝葉を伸ばしてゆこう。
どんなへんてこな形になろうとも。
貪欲に、光を目指して。
『コツコツ生きてきたあなたへ』
楽しんでね
ーー
燃やし尽くしてきた「古い自分」
真っ白な灰が、土の上に広がる。
灰は、自分。
コツコツ分解する微生物たちも、自分。
栄養満点の土壌。
あとは、この養分を吸い上げるだけ。
光を求めて、枝葉を伸ばしてゆこう。
どんなへんてこな形になろうとも。
貪欲に、光を目指して。
前回の記事の続き
そうとなれば、初心に帰ろう。
グラウンディングだ。
わたしは、睡眠について、『意識領域から無意識領域への移行』という感じを抱くようになっていた。
けれども、純粋な意識の移行というよりも、非現実世界へ、ともすれば逃避のような、もっと言えば「身体を置いて行ける世界」であってほしいという願い……、解放と快楽の世界がそこに在ると信じるような……。
わたしは、睡眠を、避難所と位置付けていたのかもしれなかった。重ねて、最近になって自覚できたのだが、このような逃避の瞬間でさえ、自分自身を『被害者』の位置に固定し、夢の中で誰かに癒してもらう様を自作自演していたのだった。
そして。
ふと、やっと、気づくのである。
……あれ? グラウンディングすりゃ、眠れるんじゃねぇか……?
このとき、グラウンディングという言葉を、ほかの言葉で補った。
自分のために、もう少し分かりやすくするためだ。
わたしは、ひとつの呪文を編み出した。
『睡眠時のグラウンディング・脱力・鎮静』
毎晩、この呪文を唱えた。
では、あらためて、これらの体感を、言葉にしてみよう。
「わたしは、わざわざ被害者を自作自演し続けずとも、夢の中に癒しを求めずとも、今ここにこそ平和があるではないか」
【睡眠時のグラウンディング・脱力・鎮静……そこから広がっていく感覚について】まとめ
①平和へ意識を向ける
②身体のグラウンディング・脱力・鎮静が深まる
③より平和を感じられる
【睡眠時のグラウンディング・脱力・鎮静……そこから広がっていく感覚について】
地味に続けている、睡眠時の研究。
バイブレーションの在り方の探求から始まったそれは、ほんの僅かずつではあるものの、感覚の広がりを現し始めた。
日々、様々なメッセージを受け取る。が、その中でも、最近味わった深い感覚は『平和の循環』だ。
まず、平和へ意識を向ける。
①平和へ意識を向ける
②身体のグラウンディング・脱力・鎮静が深まる
③より平和を感じられる
この循環だ。
本当は、もっと夢に近い感覚で「平和の循環」というキーワードを感じた。
起きて言葉にすると、こんな感じだ。
―――
せっかくなので、経過を詳細にまとめておく。
最初は、リラックスタイムのバイブレーションの在り方の探求だった。
どうも神経が昂ったまま筋緊張が続いて、睡眠の質がよろしくない日々が続いていた。
ともかく、入眠がうまくいかなかった。
だから、『夜の振動数・周波数と同調する』チャレンジをしてみた。
夜を感覚するのみでなく、わたしのバイブレーションとの一体化を試みた。
わたしはわたしではなくなり、夜そのものになるのだ。
自分と夜を繋ぐ過程には、様々な試行錯誤があった。
自分の身体と夜空を有線で繋いでみたり、空ではなく土と同期してみたり。
最終的に心地よいと感じたのは、第七チャクラと宇宙(星空)を繋ぐイメージだ。
大きなものと繋がっている安心感。孤独感が溶けて消え、ここに自分たったひとりだとしても大丈夫な感じ。
ただし、その日の自分のコンディションによって、スムーズだったり、まるっきりできなかったり、ムラがある。(ムラがあるのは当然ともいえる)
そこで、登場するのが、アイツだ。
先に少し『アイツ』の説明をする。
わたしは、日常を楽に過ごすために、『役』を演じるということを実践している。
鬱々とした『わたし』の意識が入った身体は、緊張や疲労でバキバキの状態が癖になっている。だから、『健康なキャラクター』の意識を身体に入れて、身体の状態を楽に変化させるのである。
そのために練ってある『役』が、数人いる。そして、つい最近、そこに『新キャラ』が浮かんできて、ソイツがとてもいい仕事をするのであった。
ソイツは、どちらかというと、めちゃくちゃなヤツにしか見えなかった。
いいかげんで、下品で、だらしないヤツだと思っていた。
でも、ふとした拍子に、その役に入ってしまった夜があった。
すると、ヤツは、なんとも大きな『安心感』の持ち主なのであった。
「夜なんだから、もう寝ようぜ」
無気力っぽい声で、至極真っ当なコトを考える。
ヤツでいると、身体の力がどんどん抜けていった。
『わたし』に欠けた感覚を、ごく自然に持つ人物なのだった。
ヤツの根源は、「目の前が平和である」という、安心感なのだと思う。
言い換えれば、「目の前が戦場ではない」という、ホッとした脱力感だ。
そう、ヤツは戦争を経験している。
それは、「わたしの世界の戦争」の経験と、気持ちよく同調するのであった。
布団で眠れるあったかさとか。
面倒くさい人間がそばに居る愛おしさとか。
それがどんなに大切で尊いものか、儚いものなのかを知ってしまっている。
戦場じゃない今日は、身体にとって、圧倒的な安心感をもたらしている。
わたしの、今日の平和は果たして幸せなのかという思考・疑問なんてものは薄っぺらくて。
ヤツの、ただ「生きているな」という実感が、たとえどんな哀しみの伴ったものであったとしても、どうしたって心地いい。
これは、文字列の不幸との比較による相対的な幸せの感覚ではなくて。
経験したから感じられる絶対的な幸せの感覚、と表現した方がいい気がしていて。
ヤツの意識でいると、今日があまりにも平和で、ただただ身体がホッとするのだった。
こうして、冒頭の『平和の循環』へと繋がっていくのである。
しかし。
これもまたムラがあった。
そうとなれば、初心に帰ろう。
グラウンディングだ。
―――続く
『孤独な仲間たちへ』
離れていても、繋がっている。
字面の理解ではなく、盲目に思い込むことでもないのだ。
この感覚知を、言葉にすることができるだろうか。