わたしは、日常を楽に過ごすために、『役』を演じるということを実践している。
鬱々とした『ワタシ』の意識を切り替えるための手段として、『健康なキャラクター』を演じるのである。
それにより、身体の状態を楽に変化させるのが目的だ。
アイツについて、もう少し深掘りし、言葉にしてみようと思う。
ヤツは人を避けない。
人を怖がる『ワタシ』と違って。
むしろ、自ら近寄っていくタイプだ。
声をかけられちゃ、立ち止まるだけじゃなく、そこに歩み寄っていく。
「何してんのー? なんかオモシロイもんでもあったァ?」
「どしたー? なんかあったのかァ?」
ヤツは、他人に興味があるのだろう。
さらに、他人を気にかける余白もある。
たぶん、自分自身のことをテキトーに横に置いているからだと思う。
良くも悪くも、自分のことはさておくとして……という感じだからだ。
『ワタシ』は、自分のことで手一杯なんだと感じた。
いつもしょうもない悩みをたくさんたくさん抱え込んでいて、他人に興味を持つ余裕がないんだ。
アイツは、日常の些細なことで、いちいちシリアスにならない。
ワタシは、日常の些細なことで、いちいちシリアスになる。
ヤツが、自分自身の不安や悩みをネチネチ引きずらないのは、どうしてか。
単純に、純粋に、『目の前にいる人たちの生活の営みを眺めるのが心地いいから』なのではないか。
前の記事にも書いたが、ヤツは戦争を経験している。
目の前の景色が平和ならば、もうそれだけでいいくらいなのだ。
……本当に、その通りだ。
しかし、もっと深く探り、言い方を変えれば、ヤツは自分自身に無頓着ということでもあるだろう。
それは、どうしてか。
……戦争・過去の己について、触れたくないトラウマがあるからだ。
自分についての感覚が、一部麻痺しているのかもしれない。
ケアできるような状態ですらないのかもしれない。
それでも。
今日の平日にちゃんと目を向けて生きているヤツは、前向きなのだと思う。
平和を、平和と感じ、守るべきと認識しているのだから。
ワタシと違って、無関心にも自暴自棄にもなってない。
ワタシが、「人間が怖い」のは、意識が退行してしまうからだ。
「目の前の平和な現実を、ただ見つめる」ということができない。
どうしても、過去の意識に引きずられて、「攻撃されるんじゃないか」「傷つけられるんじゃないか」と勝手に怯えてしまうのだ。
でも、戦いは終わった。
ヤツは無気力ながらも、耐えて、持ち堪えて、生きている。
目の前の人々が平和に暮らしているのであれば、自分自身の悩みはどうしたってソレ以下のしょーもないもんだとわかるから、構いやしないのだ。
ただし、いやだからこそ、「自分を含めた目の前の平和」を守ろるために、ここぞと、身体が動いちまう。
だって、もう二度と失うのは御免なのだ。
その原動力・価値観は、『国という概念』よりも、『時代という正当化』よりも、『目の前の平和』を守るための、生き様。
生命力が強い、と形容して憚らない。
ワタシとしては、ひとことでまとめてしまいたくはないのだが、それを押しても「生命力が強い」という感じが強くある。
嗚呼、きっと。
ヤツの生命力は、ワタシにとって、よきヒントなのだろう。
そんなヤツの意識については、ワタシの所感だけにとどまらなかった。
ヤツの意識で散歩していると、現実の人間関係もそのように動いたのである。
いつもすれ違うだけの人に、「おはようございます」と声が出たワタシの身体。
いつも挨拶だけしてすれ違う人と、「あのさ」なんて立ち話をしたこの身体。
清々しかったよ、ソイツの意識。
傷跡を抱えながら、目の前の平和を愛し、それを守ろうとするヤツの意識。
生命力。