ちいさな1人の人間の内には、
これまでの全人類の痕跡があります。
1人立つというのは、それをすべて、
いったん背負うことじゃないかしら?
全人類が含まれるから、誰もが、
自分のこととして、自分の問題として
直面できる。と思うのね。
外にあるモノゴトをみて
「なぜ、こうなんだー」と。
許せないこととか、こうならないのかとか。
強く深く思うことがあるなら。
それは問いかけられた人生の課題。
自分で解かなければならないこと。
他の人が「なぜ?」と疑問に思わないことを、
自分だけが疑問に感じるのであるならば、
自分のために用意されている問題。
それは、たとえば、自分の回りにある
「自分は誰(何)を、拒否しているのだろうか」
・・・なのです。
そこに着手し始めたら、もう外にある
「なぜ・・」は、問題にならなくなる。
それは内なる問題を見つけるために
あっただけだから。
「問題」というのは、明らかに
「問題です」という風には、
人の前に姿を現さないものです。
深ければ深いほどに。
これまでの全人類の痕跡があります。
1人立つというのは、それをすべて、
いったん背負うことじゃないかしら?
全人類が含まれるから、誰もが、
自分のこととして、自分の問題として
直面できる。と思うのね。
外にあるモノゴトをみて
「なぜ、こうなんだー」と。
許せないこととか、こうならないのかとか。
強く深く思うことがあるなら。
それは問いかけられた人生の課題。
自分で解かなければならないこと。
他の人が「なぜ?」と疑問に思わないことを、
自分だけが疑問に感じるのであるならば、
自分のために用意されている問題。
それは、たとえば、自分の回りにある
「自分は誰(何)を、拒否しているのだろうか」
・・・なのです。
そこに着手し始めたら、もう外にある
「なぜ・・」は、問題にならなくなる。
それは内なる問題を見つけるために
あっただけだから。
「問題」というのは、明らかに
「問題です」という風には、
人の前に姿を現さないものです。
深ければ深いほどに。