9/1 新たな月を迎えました 2008年9/1は6年前だった この日は自民党の福田康夫総理が 突然辞任なされた日でした その後に リーマンショックが世界を圧巻したのでしたね
2008年までは 9月は そんなに記憶の強い月ではなかったのですが 08年以降は やっぱり警戒するんですよね9月。
アメリカの同時多発テロも9月だったが その時は 日本に直接の影響はなかったが 2008年9月は 世界中の商売人にも激しい激震だった
あれから6年が経過した 福島の原発事故は3.11だった その時からは3年半が経過した この9月
僕にとっては もう1つの強烈な印象は 今から2年半前の 高槻市野田東トーナイリサイクル工場の大火災が2年半経過
これが2012年3.12の夜中に漏電から 失火を出して建屋全部220坪や機器、機械、運搬機器多数、資源の在庫も全焼してしまった・・アレから2年半。
6年間の間にもう 終わったか~ と 3度感じた ㈱トーナイ 東内誠
しかし それでも 今月も いたって元気に過ごさせてもらっているのは 運も良いほうなのだ。
この9月も 宜しく 皆様にお引き立て戴いて頑張って やっていきましょう
僕はね 日々 こうして日記みたいなものを書いているので その時々を記録しているから 今から 100日前に何を考えて何をしたか 思い出せるのね・・
まあ とにかく この月も スクラップを日々 集めまくって 出来れば 廃棄物になるような資源ゴミを不純物を除去後に売って 海外のドルをいっぱい稼いじゃるの
此の月も できれば 日々150㌧ほども 集めたい。
8月は 平均では150トンが未達成に終わった駄目だったね
その上に 8月は営業日が23日と少なかったこともある。
アベノミクスに陰りが出たということもある 地方には エエ感じの景気の高揚が 未だに感じられない
中小企業には まだ 上場企業のような景気感がないと いうことも八月の不成績の理由だ。
さあ この後は 150年から2000年前までの 歴史の勉強 この 歴史のレベルを普通人以上には高めたい
日本人は 何処から来たのか って ことを追求してるんや 東内誠
歴史に興味のない人も 目を通していたら 歴史に必ず興味が出てくると ワシは思うョ
【黒船来航1854年】 約160年前 江戸幕府末期 明治維新より10年ほど前、その前年にも 米国大統領の親書を持ってペリー提督が日本へ来航した『日米和親条約』を締結した。
■その14年ほども前に 中国の政府 清国 と イギリスで2年間に渡り アヘン戦争が起こった その時代 インドはイギリスの植民地であって そこで栽培したアヘンを密輸出させていたんだ そしてアヘンの代金決済は どうも銀を貰ったんだね アヘンを吸う者が増えれば 治安は悪化するので 清は 広東省で 厳しく密輸(1839年頃)取り締まった 広東省は その昔から 密輸するものが多かったんだろうね 取締りが始まると英国人はマカオに逃げたみたいだ。 ---その時イギリスは 清国が兵力を整えていた広東省ではなく 天津に 大量の軍船を派遣した 首都北京の地図で下辺りの主要な港 天津の港に攻め入ったんだろう その前に 浙江省上海周辺の港も攻めたみたいだ。日本の江戸時代末期、白人がどんどん 黄色人種やアジア地域の国や人々を植民地にしていったんだ。---そのように して清国も 欧米人の型にはめられていった。 アヘン戦争で負けて 清国は 何を獲られたかというと、香港を割譲ですよね そして その他も だいぶんに獲られた 賠償金も凄い額を獲られたんだ そして沿海部に5つの自由貿易港を認めさせられ 不平等な条約に アメリカやフランスも同様に 進出してきたんだ清国 やられ放題だった。 しかし その清国自体は 現在の漢民族ではなくて 満州人の国が清国だったので 漢民族は悲観的ではなかった みたいだね ここで覚えておかないと あかん ことは アヘン戦争当時は 漢民族の国家ではなくて 満州の国家だったんだよね
■しかし そのイギリスに中国‘清がアヘン戦争で負けたのを知った 江戸幕府や日本人たちは 慌てた とても 慌てた。 アジアの最強国であった 中国の清が 簡単に 白人に 敗れてしまうんだから・・・ その時代 清の民は 銅銭を通貨に使用していたので 銀が交換され始めて 銀がイギリスに渡り 中国国内で不足し 今で言う 為替が 円安になったような事態を迎えた イギリス人は銀が欲しかったみたいだから 銀が どんどん 清国から 海外へ出て 銀が高騰し銅銭が価値を低くしたわけやね その後もアロー戦争で フランス イギリス連合軍が またもや 攻めた アメリカ ロシアも 戦争には参加しなかったが これに乗じて 乗り込んできた。白人たちの権利を主張し清国にはいってきたのだろう。 清国は 欧米列強から不平等な条約を飲まされた。軍事力で劣っていたので仕方が無かった。そんな情報も日本人も知るところになって 当時の日本人は動揺したと思う。そのうちに 近代兵器の大きな鉄の船で また大きな大砲で撃たれて奴隷にされると考えたと思う。元寇以来の 恐怖感だったと思うの 日本人にとって しかし 日本人は 危機に際して これを乗り越えて 一致団結し また その後に大きく変化し発展する 危機を乗り越える事で また 成長するような性質が日本人には 潜在的にあるのかな そないに東内誠は思う 不死鳥のようなところがあるのが 日本人ですよね 日本人だから ニッポン ビイキ って ところがあるのは 仕方が無いことやけれども まあ、のん気に過ごしていた江戸時代末期に 黒船が来航し日本人は なんとかせねば ならないと危機感を強くもって考えた その考え方も 各種あって 日本人同士で 意見も対立していった。この辺りの時代に 坂本龍馬も過ごしたんだよね。西郷隆盛も活躍した。薩長同盟もあった。その後 長州藩が凄い権力を手に入れた。今の 中国地方の山口県だ。関門海峡の辺りの国やね。あそこの辺りは 多分 1500年ほども 前に 渡来人が多数住んだ場所なんや。百済なのか 新羅なのか 高麗 なのか 任那なのか それは よく存じない。この地方 たいへん多くの総理大臣を輩出してきている。九州から瀬戸内への入口辺りですよね。ネットで調べていくと 明治天皇におかれても ご縁が深いように書いてあるものも ネットでは散見するんだ。古代史勉強中の 大阪港のグローバルな屑商トーナイ の 東内誠 小学校の頃から 坂本龍馬さんが 大好きだった 岡山県の美作の山間で育ったので 海を見る機会には恵まれなかったが 海の周辺でも仕事をしてみたいという希望はあった。もっと若い時に このような歴史などの勉強も出来ていたら もっと大きなことも 出来たかも知れないが 育った境遇が厳しかったので 今 58歳になって ようやく 中学校の歴史の勉強を初めて しているような ところもあるので 誰でも知っているようなことを 日記に綴っていて アホウ と 見られるかも知れないが まあ それもよい しかし ワシは30歳代からは 広東省の貿易も多少はやってきているし その後は 地図上でも 上へ上へと 進んでいる傾向で 天津も関連するし 上海周辺 浙江省も関連するし 最近では 大阪港の税関からも 保税区の自社での管理もお任せ戴いているので 幼い時に 坂本龍馬の目指した方向の 仕事も一部ではやっているので その面では思い通りの仕事もしているとも 言えなくもない。しかし グローバルな仕事をすると言うことは 基本的な歴史の勉強もしていなくては 外人相手に交易をする ということだから 歴史の勉強はしていなければアカン、 中国共産党員は まあ 言えば 小学校の教室で№1-2の 人たちが中心なので その将来の幹部は 全員が 歴史に詳しいと考えてもよいと思う それらの優秀な方々と 会話し 交渉をするには 学歴は特別に必要ないが 知識は なければ 会話には ならない と 確信している。本日勉強した アヘン戦争のその後でも 為替の学習が入っていると思うてる それは 銅の硬貨が中国元安いとなり 銀が高騰した 高騰した原因は イギリスが交換通貨として 銀を要求した というところやね。これは経済の勉強にも繋がるように思うの東内誠はそう思う。 また アヘン戦争で出てくる中国の地名は 今でも 経済の中心とも 言える場所ばかりであるし 歴史と経済は 繋がっていると思う。また トーナイが追っている銅も その時代も通貨だったんだ。清国。明治時代になって 銀山も 日本の国内でも 国家事業として行った この前 姫路から 日本海に向う 高速道のP で 銀山の資料が展示されていたのも 読んでみて 一回 その辺の銀山も 徘徊する ドライブコースに入れておこうと計画しているんじゃ 東内誠 美作の楢原上の とうないの 裏の山にも 銀は出なかったんかな~ 坑道は 多数あるんじゃ 楢原上。鉄や銅は出たと思うんやけど 美作という場所は なんで その昔から 国家の偉い人に注目されるか と 言えば 鉱脈があるからや なので 中国から渡来した者や 朝鮮半島からの者らが 注目し その時々の政権が気にしたんだ 蘇我も 今 奈良県を ワシが勉強中なのですが 当然 蘇我氏も入ってきたことは確か その前は 多分 物部氏 肩野物部も居たと思う 蘇我氏より古くから居たのは やはり物部氏だと思う 物部氏は 500何年かに 蘇我氏によって 滅ぼされたが 全国の物部氏が全て滅びたわけではなくて、 権力の座からは下ろされたにしても 地方地方には 物部氏も 多少の力をもって生残ったとも思う そして その後 数十年で その時代の新興勢力であった 蘇我氏も亡ぶことになり その後 50年後くらいかな 力を落としていた物部も 一定の復活したのじゃないかな~ とも思うが 岡山県には 中臣 藤原氏も(西の総社などには秦氏も多数居た)居たと思うので どうなのかな~ 500年から720年あたりの時代 激動だった美作市史。日本の歴史を知るには 吉備国の歴史 そして 吉備津日子の歴史 中山神社の歴史が 大事では ないかと思うのは 東内誠 中山神社の 元祖中の元祖は美作市楢原上の大東内神宮です これは ネットで拡散しちゃるんじゃ 東内誠の家に神様が 白い馬に乗って現れて それに お尽くししたのが【だい とうない】の始まりやから ワシの家に20日間も逗留なされたんだ と 歴史の本にも書かれているんじゃ その後に 西の方向へ 攻められたのでは ないかと思っている 武力を持って進んだと思う 鍛冶をして 矛を作ったかも 知れない ワシは ゆっくり時間が取れたら 大阪のトーナイ高槻市本社から 小型の重機を ユニック車に積んで 東内の家の庭を 祠の前の辺と 後ろの辺を 自分で掘ってみちゃろう と思ってるんや 密かに・・・。ワシの先祖は 物部系だったか? もしくは物部に恭順していたか? 一番に その時代の東からの 勢力に 威圧をうけて(蘇我氏なのか藤原氏なのかは解からないが 恭順したようにも思う 東の美作の山からの入り口やから 出雲街道に近いし その場所 楢原の神宿を 矛を作る拠点にしたかも 知れない その地は 鉄が採れるし 銅もあったかも知れない 簡単な鍛冶はやったかも 知れない。吉備津○○ って調べていくと 朝鮮半島の歴史書にも 出てくるみたいにも書いてあるので・・・
先週の土曜日に 祠の前にある 樹木は少しずつ 切り始めたんだ 手鋸ぎりを持って切っているが かなり疲れるよ そして3トンユニックと小型の重機があれば 大きな石も吊れると思うし 穴も掘れる ワシでも 多分 地下6mは掘れると思う。バチがあたらないか? それは心配やね 井戸は触るなと 口伝えで伝わっているので それは 触らない予定やな 美作市平福にも 日本一美しいとされた石棺 太い尻緒の羊と 女性の 三ツ星山の付近の絵が描かれた 石棺が出土してるので 出る可能性はあると思う この石棺は 国立博物館に置かれているんや 日本一美しい石棺 と画像検索でも 出てくるよ ここらの墓も ワシ お墓の石の苗字も見て廻っているの ここの古墳墓地の墓石で古そうなのが安東や 平福の安東は ワシの家の下の神宮登録の出自やねん。 またその古墳に 南の 山の中は 下山 って 苗字も元は 嫁が うちと行き来してる 明治時代にも どうも 下山の家からも 東内に ひいひい婆さんが来てるのは墓石にも出てるので 下山 は 関係する 下山は 何時の時代かに武家になってしまった可能性が高いと思う 旧英田町 今は 合併して美作市だが そこの尾谷の村や その川向に下山姓が多い 川向の山の頂上が 多分 戦国時代には 山城で そこの城主は 下山だと思うが 下山城主は 敗戦した敗戦後は 百姓になった可能性もある
尾谷の下山は 元々は神職系だと思う 尾谷の山の中に 藤原氏が 京都から下向したとあるし 尾谷の村の中に 正一位ともあり これも 東内誠の疑問 尾谷の村の南方向の山の中が瀧宮で2000年前から この神社 この場所を動かずと書いてある 此処は和気氏に関係があると考えているが 確証はない。和気氏 というたら 猪やし 藤やし 解からない。和気清麻呂公は 京都を造った 国土交通大臣である。平安京の建築係り総責任者。そのバックには藤。しかし 美作市 清滝の【あまのいわと】が 2000年前から 動かず ここに居る ある と 言われれば まったく 僕も 頓挫してしまうのだ・・・・・??? あれ アヘン戦争の清国の話から また 美作の古代史にいってるじゃない ワシ どうも そこへ行くな~
日本海側の出雲のあたりや 天の橋立あたりに そして 瀬戸内の辺りに どんな時代に どんな 国から 渡来人が来たんじゃろね それを知れば ヤマトの歴史も見えてくるような気がするのんじゃな~ 高槻市に御陵があられる 継体天皇でも そうや 実に 解からない 調べる耽美に 迷ってくる 継体天皇のすぐあとの時代に 蘇我氏が実権を持ってくるんやその時代にも 吉備国は なにかと 制約を受けた 王家の直轄領になったと思う 526年継体天皇じゃから。26代。岡山県は 武力の金属製の武器を造る 鉄 銅が採れたからなの・・・
蘇我氏は 500年代に 美作にも 来たと考えてる その目的は 鉄 銅を押さえる為。
蘇我氏は 何時 渡来して来たか 確証のある人は多分 居ない
そんで この前 蘇我いなめ の墓が ピラミッド式や って ワシも此処で言うていたが よく考えると ピラミッドみたいな 古墳は 吉備にもあると思う
【 吉備 ピラミッド 古墳 】で 画像で検索したら まったく ピラミッド的なのが、吉備にある 岡山市になるか 豊臣秀吉も 高松城の水攻めの前にも 祈願している場所
美作市 古代史のHPより【白猪屯倉】≪しらいのみやけ【白猪屯倉】
《日本書紀》の欽明紀,敏達紀にみえるミヤケ(屯倉)。欽明16年7月壬午条によると,大臣 蘇我稲目らを派遣して〈吉備 五郡〉に〈白猪屯倉〉を置いた≫
http://www.mimasaka1300.org/popup_shiroino.html
以下は 東内誠 ㈱トーナイの スクラップ買いまくりのHPリンク
http://tohnai.com/top_main.html
2008年までは 9月は そんなに記憶の強い月ではなかったのですが 08年以降は やっぱり警戒するんですよね9月。
アメリカの同時多発テロも9月だったが その時は 日本に直接の影響はなかったが 2008年9月は 世界中の商売人にも激しい激震だった
あれから6年が経過した 福島の原発事故は3.11だった その時からは3年半が経過した この9月
僕にとっては もう1つの強烈な印象は 今から2年半前の 高槻市野田東トーナイリサイクル工場の大火災が2年半経過
これが2012年3.12の夜中に漏電から 失火を出して建屋全部220坪や機器、機械、運搬機器多数、資源の在庫も全焼してしまった・・アレから2年半。
6年間の間にもう 終わったか~ と 3度感じた ㈱トーナイ 東内誠
しかし それでも 今月も いたって元気に過ごさせてもらっているのは 運も良いほうなのだ。
この9月も 宜しく 皆様にお引き立て戴いて頑張って やっていきましょう
僕はね 日々 こうして日記みたいなものを書いているので その時々を記録しているから 今から 100日前に何を考えて何をしたか 思い出せるのね・・
まあ とにかく この月も スクラップを日々 集めまくって 出来れば 廃棄物になるような資源ゴミを不純物を除去後に売って 海外のドルをいっぱい稼いじゃるの
此の月も できれば 日々150㌧ほども 集めたい。
8月は 平均では150トンが未達成に終わった駄目だったね
その上に 8月は営業日が23日と少なかったこともある。
アベノミクスに陰りが出たということもある 地方には エエ感じの景気の高揚が 未だに感じられない
中小企業には まだ 上場企業のような景気感がないと いうことも八月の不成績の理由だ。
さあ この後は 150年から2000年前までの 歴史の勉強 この 歴史のレベルを普通人以上には高めたい
日本人は 何処から来たのか って ことを追求してるんや 東内誠
歴史に興味のない人も 目を通していたら 歴史に必ず興味が出てくると ワシは思うョ
【黒船来航1854年】 約160年前 江戸幕府末期 明治維新より10年ほど前、その前年にも 米国大統領の親書を持ってペリー提督が日本へ来航した『日米和親条約』を締結した。
■その14年ほども前に 中国の政府 清国 と イギリスで2年間に渡り アヘン戦争が起こった その時代 インドはイギリスの植民地であって そこで栽培したアヘンを密輸出させていたんだ そしてアヘンの代金決済は どうも銀を貰ったんだね アヘンを吸う者が増えれば 治安は悪化するので 清は 広東省で 厳しく密輸(1839年頃)取り締まった 広東省は その昔から 密輸するものが多かったんだろうね 取締りが始まると英国人はマカオに逃げたみたいだ。 ---その時イギリスは 清国が兵力を整えていた広東省ではなく 天津に 大量の軍船を派遣した 首都北京の地図で下辺りの主要な港 天津の港に攻め入ったんだろう その前に 浙江省上海周辺の港も攻めたみたいだ。日本の江戸時代末期、白人がどんどん 黄色人種やアジア地域の国や人々を植民地にしていったんだ。---そのように して清国も 欧米人の型にはめられていった。 アヘン戦争で負けて 清国は 何を獲られたかというと、香港を割譲ですよね そして その他も だいぶんに獲られた 賠償金も凄い額を獲られたんだ そして沿海部に5つの自由貿易港を認めさせられ 不平等な条約に アメリカやフランスも同様に 進出してきたんだ清国 やられ放題だった。 しかし その清国自体は 現在の漢民族ではなくて 満州人の国が清国だったので 漢民族は悲観的ではなかった みたいだね ここで覚えておかないと あかん ことは アヘン戦争当時は 漢民族の国家ではなくて 満州の国家だったんだよね
■しかし そのイギリスに中国‘清がアヘン戦争で負けたのを知った 江戸幕府や日本人たちは 慌てた とても 慌てた。 アジアの最強国であった 中国の清が 簡単に 白人に 敗れてしまうんだから・・・ その時代 清の民は 銅銭を通貨に使用していたので 銀が交換され始めて 銀がイギリスに渡り 中国国内で不足し 今で言う 為替が 円安になったような事態を迎えた イギリス人は銀が欲しかったみたいだから 銀が どんどん 清国から 海外へ出て 銀が高騰し銅銭が価値を低くしたわけやね その後もアロー戦争で フランス イギリス連合軍が またもや 攻めた アメリカ ロシアも 戦争には参加しなかったが これに乗じて 乗り込んできた。白人たちの権利を主張し清国にはいってきたのだろう。 清国は 欧米列強から不平等な条約を飲まされた。軍事力で劣っていたので仕方が無かった。そんな情報も日本人も知るところになって 当時の日本人は動揺したと思う。そのうちに 近代兵器の大きな鉄の船で また大きな大砲で撃たれて奴隷にされると考えたと思う。元寇以来の 恐怖感だったと思うの 日本人にとって しかし 日本人は 危機に際して これを乗り越えて 一致団結し また その後に大きく変化し発展する 危機を乗り越える事で また 成長するような性質が日本人には 潜在的にあるのかな そないに東内誠は思う 不死鳥のようなところがあるのが 日本人ですよね 日本人だから ニッポン ビイキ って ところがあるのは 仕方が無いことやけれども まあ、のん気に過ごしていた江戸時代末期に 黒船が来航し日本人は なんとかせねば ならないと危機感を強くもって考えた その考え方も 各種あって 日本人同士で 意見も対立していった。この辺りの時代に 坂本龍馬も過ごしたんだよね。西郷隆盛も活躍した。薩長同盟もあった。その後 長州藩が凄い権力を手に入れた。今の 中国地方の山口県だ。関門海峡の辺りの国やね。あそこの辺りは 多分 1500年ほども 前に 渡来人が多数住んだ場所なんや。百済なのか 新羅なのか 高麗 なのか 任那なのか それは よく存じない。この地方 たいへん多くの総理大臣を輩出してきている。九州から瀬戸内への入口辺りですよね。ネットで調べていくと 明治天皇におかれても ご縁が深いように書いてあるものも ネットでは散見するんだ。古代史勉強中の 大阪港のグローバルな屑商トーナイ の 東内誠 小学校の頃から 坂本龍馬さんが 大好きだった 岡山県の美作の山間で育ったので 海を見る機会には恵まれなかったが 海の周辺でも仕事をしてみたいという希望はあった。もっと若い時に このような歴史などの勉強も出来ていたら もっと大きなことも 出来たかも知れないが 育った境遇が厳しかったので 今 58歳になって ようやく 中学校の歴史の勉強を初めて しているような ところもあるので 誰でも知っているようなことを 日記に綴っていて アホウ と 見られるかも知れないが まあ それもよい しかし ワシは30歳代からは 広東省の貿易も多少はやってきているし その後は 地図上でも 上へ上へと 進んでいる傾向で 天津も関連するし 上海周辺 浙江省も関連するし 最近では 大阪港の税関からも 保税区の自社での管理もお任せ戴いているので 幼い時に 坂本龍馬の目指した方向の 仕事も一部ではやっているので その面では思い通りの仕事もしているとも 言えなくもない。しかし グローバルな仕事をすると言うことは 基本的な歴史の勉強もしていなくては 外人相手に交易をする ということだから 歴史の勉強はしていなければアカン、 中国共産党員は まあ 言えば 小学校の教室で№1-2の 人たちが中心なので その将来の幹部は 全員が 歴史に詳しいと考えてもよいと思う それらの優秀な方々と 会話し 交渉をするには 学歴は特別に必要ないが 知識は なければ 会話には ならない と 確信している。本日勉強した アヘン戦争のその後でも 為替の学習が入っていると思うてる それは 銅の硬貨が中国元安いとなり 銀が高騰した 高騰した原因は イギリスが交換通貨として 銀を要求した というところやね。これは経済の勉強にも繋がるように思うの東内誠はそう思う。 また アヘン戦争で出てくる中国の地名は 今でも 経済の中心とも 言える場所ばかりであるし 歴史と経済は 繋がっていると思う。また トーナイが追っている銅も その時代も通貨だったんだ。清国。明治時代になって 銀山も 日本の国内でも 国家事業として行った この前 姫路から 日本海に向う 高速道のP で 銀山の資料が展示されていたのも 読んでみて 一回 その辺の銀山も 徘徊する ドライブコースに入れておこうと計画しているんじゃ 東内誠 美作の楢原上の とうないの 裏の山にも 銀は出なかったんかな~ 坑道は 多数あるんじゃ 楢原上。鉄や銅は出たと思うんやけど 美作という場所は なんで その昔から 国家の偉い人に注目されるか と 言えば 鉱脈があるからや なので 中国から渡来した者や 朝鮮半島からの者らが 注目し その時々の政権が気にしたんだ 蘇我も 今 奈良県を ワシが勉強中なのですが 当然 蘇我氏も入ってきたことは確か その前は 多分 物部氏 肩野物部も居たと思う 蘇我氏より古くから居たのは やはり物部氏だと思う 物部氏は 500何年かに 蘇我氏によって 滅ぼされたが 全国の物部氏が全て滅びたわけではなくて、 権力の座からは下ろされたにしても 地方地方には 物部氏も 多少の力をもって生残ったとも思う そして その後 数十年で その時代の新興勢力であった 蘇我氏も亡ぶことになり その後 50年後くらいかな 力を落としていた物部も 一定の復活したのじゃないかな~ とも思うが 岡山県には 中臣 藤原氏も(西の総社などには秦氏も多数居た)居たと思うので どうなのかな~ 500年から720年あたりの時代 激動だった美作市史。日本の歴史を知るには 吉備国の歴史 そして 吉備津日子の歴史 中山神社の歴史が 大事では ないかと思うのは 東内誠 中山神社の 元祖中の元祖は美作市楢原上の大東内神宮です これは ネットで拡散しちゃるんじゃ 東内誠の家に神様が 白い馬に乗って現れて それに お尽くししたのが【だい とうない】の始まりやから ワシの家に20日間も逗留なされたんだ と 歴史の本にも書かれているんじゃ その後に 西の方向へ 攻められたのでは ないかと思っている 武力を持って進んだと思う 鍛冶をして 矛を作ったかも 知れない ワシは ゆっくり時間が取れたら 大阪のトーナイ高槻市本社から 小型の重機を ユニック車に積んで 東内の家の庭を 祠の前の辺と 後ろの辺を 自分で掘ってみちゃろう と思ってるんや 密かに・・・。ワシの先祖は 物部系だったか? もしくは物部に恭順していたか? 一番に その時代の東からの 勢力に 威圧をうけて(蘇我氏なのか藤原氏なのかは解からないが 恭順したようにも思う 東の美作の山からの入り口やから 出雲街道に近いし その場所 楢原の神宿を 矛を作る拠点にしたかも 知れない その地は 鉄が採れるし 銅もあったかも知れない 簡単な鍛冶はやったかも 知れない。吉備津○○ って調べていくと 朝鮮半島の歴史書にも 出てくるみたいにも書いてあるので・・・
先週の土曜日に 祠の前にある 樹木は少しずつ 切り始めたんだ 手鋸ぎりを持って切っているが かなり疲れるよ そして3トンユニックと小型の重機があれば 大きな石も吊れると思うし 穴も掘れる ワシでも 多分 地下6mは掘れると思う。バチがあたらないか? それは心配やね 井戸は触るなと 口伝えで伝わっているので それは 触らない予定やな 美作市平福にも 日本一美しいとされた石棺 太い尻緒の羊と 女性の 三ツ星山の付近の絵が描かれた 石棺が出土してるので 出る可能性はあると思う この石棺は 国立博物館に置かれているんや 日本一美しい石棺 と画像検索でも 出てくるよ ここらの墓も ワシ お墓の石の苗字も見て廻っているの ここの古墳墓地の墓石で古そうなのが安東や 平福の安東は ワシの家の下の神宮登録の出自やねん。 またその古墳に 南の 山の中は 下山 って 苗字も元は 嫁が うちと行き来してる 明治時代にも どうも 下山の家からも 東内に ひいひい婆さんが来てるのは墓石にも出てるので 下山 は 関係する 下山は 何時の時代かに武家になってしまった可能性が高いと思う 旧英田町 今は 合併して美作市だが そこの尾谷の村や その川向に下山姓が多い 川向の山の頂上が 多分 戦国時代には 山城で そこの城主は 下山だと思うが 下山城主は 敗戦した敗戦後は 百姓になった可能性もある
尾谷の下山は 元々は神職系だと思う 尾谷の山の中に 藤原氏が 京都から下向したとあるし 尾谷の村の中に 正一位ともあり これも 東内誠の疑問 尾谷の村の南方向の山の中が瀧宮で2000年前から この神社 この場所を動かずと書いてある 此処は和気氏に関係があると考えているが 確証はない。和気氏 というたら 猪やし 藤やし 解からない。和気清麻呂公は 京都を造った 国土交通大臣である。平安京の建築係り総責任者。そのバックには藤。しかし 美作市 清滝の【あまのいわと】が 2000年前から 動かず ここに居る ある と 言われれば まったく 僕も 頓挫してしまうのだ・・・・・??? あれ アヘン戦争の清国の話から また 美作の古代史にいってるじゃない ワシ どうも そこへ行くな~
日本海側の出雲のあたりや 天の橋立あたりに そして 瀬戸内の辺りに どんな時代に どんな 国から 渡来人が来たんじゃろね それを知れば ヤマトの歴史も見えてくるような気がするのんじゃな~ 高槻市に御陵があられる 継体天皇でも そうや 実に 解からない 調べる耽美に 迷ってくる 継体天皇のすぐあとの時代に 蘇我氏が実権を持ってくるんやその時代にも 吉備国は なにかと 制約を受けた 王家の直轄領になったと思う 526年継体天皇じゃから。26代。岡山県は 武力の金属製の武器を造る 鉄 銅が採れたからなの・・・
蘇我氏は 500年代に 美作にも 来たと考えてる その目的は 鉄 銅を押さえる為。
蘇我氏は 何時 渡来して来たか 確証のある人は多分 居ない
そんで この前 蘇我いなめ の墓が ピラミッド式や って ワシも此処で言うていたが よく考えると ピラミッドみたいな 古墳は 吉備にもあると思う
【 吉備 ピラミッド 古墳 】で 画像で検索したら まったく ピラミッド的なのが、吉備にある 岡山市になるか 豊臣秀吉も 高松城の水攻めの前にも 祈願している場所
美作市 古代史のHPより【白猪屯倉】≪しらいのみやけ【白猪屯倉】
《日本書紀》の欽明紀,敏達紀にみえるミヤケ(屯倉)。欽明16年7月壬午条によると,大臣 蘇我稲目らを派遣して〈吉備 五郡〉に〈白猪屯倉〉を置いた≫
http://www.mimasaka1300.org/popup_shiroino.html
以下は 東内誠 ㈱トーナイの スクラップ買いまくりのHPリンク
http://tohnai.com/top_main.html