銅相場モーター.鉄スクラップ買取大阪高槻市アジア向けコンテナ単位直輸出&廃棄物処分のトーナイ 吉備の国 古代史 

リサイクル買取 アジア一円に屑直輸出 銅スクラップ鉄モーターなど雑品高価買取

キルギス人はシルクロード辺りの旧ロシアやけど日本人と仲が良い それはな

2015-05-11 06:35:36 | 中国向け非鉄金属輸出価格相場トーナイ
銅相場トーナイ5/11早朝 この週は台風が心配だね
海が荒れると ワシは困る
海が此の時期に なんで荒れるのか 5月は波 穏やかな季節なのに・・・
そうなんじゃ ワシの先祖は交通安全も祈った
その昔は 旅をすることは 命がけのことで
その旅 航海の安全なども祈願して僕の先祖は祈ったんじゃ
あのな 車の時代になって交通安全の祈りが始まった訳では ないんじゃ その昔 古代から 渡来人には 海人
天そんが つく種族も ほぼ 海外からやってきたので
交通安全は 今時の 交通事故に遭遇する危険度とはレベル違い 桁ちがいに危険だったんじゃ
命賭けの大博打 みたいな旅やから
まあ 五月は ゲンの良い月になる はずじゃ
気候もよくて 人々が 移動もし始めたり
景気もよくなってくるはずや・・
5の5の午 5月は 人モノ金も動き始める
だから 資源スクラップ相場も 息を吹き返してき始めてるやろ
トーナイ スクラップ買取のリンク ㈱トーナイ東内誠
http://tohnai.com/top_main.html(関西一の銅くず買取)

以下は 日本人の為になる↓
古代史瞑想 トーナイ の 東内誠 仲山太神宮とうない

キルギスの伝説
「キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡って日本人となった。」
日本神話山幸彦と海幸彦
「弟の山幸彦(猟師)は獣をとり、兄の海幸彦(漁師)は魚をとっていた。」
兄弟は争いをするが、兄が弟に服従する事で仲直りする
・・・・・・・・・・・・・・・・・
キルギス人と日本人は顔がとても似ている らしい
天山山脈を越えた辺りに なるんか?

ソ連に編入されていたみたいだ
終戦後、シベリアに抑留された 日本人たちが 戦後、
ロシアに強制労働させられた場所の一つだが ここでは日本人は死んでいない みたいで・・

元々 この辺りから 日本人の元祖は渡来してきたみたいなこともあって現地の人と この抑留された日本人は友好的であって また この抑留された日本人が まあ一生懸命に働いて しっかりした建築をやったことも 尊敬されていると いうこともあるらしい

キルギスの人達は 日本人のことは その昔 兄弟だった民族とも考えているようだ

秦氏は このあたりの出自みたいだ
弓月の国から 西暦200年代に 大量に渡来した と書いてあるものも見かけるし・・・

シルクロードの 天山山脈の その向こうの辺りだ
『キルギス人 検索 画像 』 で みてみると
日本人に似ている そっくりだ

『元々昔からここに居住するキルギス人は、突厥とっけつ族やモンゴル族のアジア系の遊牧民族の末裔なのだ・・・』というようなことも 
ヤフーの知恵袋でも書いてあるな~
日本人特有の モウコハンも 尻にあるみたいだね。

まあ、日本人の元祖の中の 一部は この辺りに 昔住んでいたことがあると 考えてもエエんじゃないか と空想している

2千年前後前から 断続的に わが国を目指してやってきた そんな感じだ
しかし 船の段取りを よくやったものだ 2千年も前の時代なので 凄いことや
なんで それらの人々はというか そのリーダーは 最果ての島国 極東の陽の昇る国を目指してやってきたのだろうね それは 日本の瀬戸内などが、 シルクロードの最終地点だったんかも 知れないよ

シルクロード東内誠の 空想その2
シルクロードと日本
日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多く残っており、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人の李密(り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録なども残されている。当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、
摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は
「シルクロードの日本の玄関」、
飛鳥京や平城京や正倉院は、
「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。

と****ウイキでは書いてあるな~
秦の始皇帝に仕えた 秦氏は 天山山脈の辺から シルクロードを通って中国へ入って その後 何時の時代になるのか 朝鮮半島の東の新羅の辺りに 集って どうやろ~倭国に渡ってきたんかな~
そや そのシルクロードを開発を進めようと
中国の 習近平総書記がAIIBを提案し シルクロードの開発などもし始めようとしているじゃない

シルクロードは 色色と考えてみると 色んなルートがあると思うんだ 天山山脈を抜けるルートでも 北側を廻るルートと南側を廻るルートなど 
なんか その昔は 西安という 古い街があって 
そこに全ての道は繋がる って とも言われている

そんで そのシルクロードの最終地点は たぶん 大阪港であって そこから奈良県のほうに向けての道があったんだろう

瀬戸内は 大阪港に来るすぐ手前になり、
ワシの里の
備前や牛窓 赤穂なども 秦氏に関係するし

岡山の総社市には 最初の秦氏が いまだに 末裔の方が ワシの先祖は元祖の秦氏やと ネットでも主張しておられる 多分 そのとおりだと僕も感じる

そういう ワシも 備前のみまさかの出なので 秦氏の関係も多少はあるような 無いような そんな期待感はある

まあ、1300年前頃から 1800年ほども前の時代 多分
岡山県周辺は 新羅や 百済を経由して 渡来した人々が 各地に住み着いたように空想してる

そんで その後に 畿内 近畿 大阪港のほうにも移動していったのだろう と空想する者 トーナイの東内誠

ウマヤドノオオジ厩戸皇子
ワシらの時代は聖徳太子と習ったと思うが 近年では
厩戸皇子 と呼ぶらしいんだ
しかし 小野妹子を遣隋使に行かせたのは その方だろう だいたい西暦でいうと600年過ぎ辺りになるんか?

秦氏は倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝 とも いう。
秦河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、
聖徳太子の側近として活躍し あてにもされた方だ

このウマヤドノオオジ厩戸皇子 聖徳太子がお亡くなりになった あとの 暫くして この 秦河勝に時の勢力と 何か 問題があって 備前の国の 赤穂の島に 船で逃げて来られた とあるんだ
元々 備前は 新羅や百済の人達が多く住んだと思うので その地を終焉の地となされたのかも 知れない?
聖徳太子は 蘇我氏のお血筋でしょう?
蘇我氏の滅亡と 秦河勝が 備前 赤穂に逃れてこられたことは 何かあったんだろう 王朝の中のことなのか?
此のあたりが 理解出来ないな ワシの頭が悪いからなのか
理解が進まない・・・・
蘇我氏 自体も よく 解からないが
証拠となる多くの古墳が発見されているから・・・・
そやねん 日本人の起源ということを調べていくと どうしても行き詰ってくる

まあ、ただ言える事は シルクロードを通って 西安の古代都市も通過して 秦氏がシルクロードを通ってきたことは 確かだと思う

なんで 京都の祇園の祭りに ラクダの絵が出てくるの? ってことでも すぐに解かるじゃない
その1300年前 1400年も前の 瀬戸内や大阪港や 奈良県にラクダはおったとは思えない

やは~た 八幡さん
は その元は 九州の宇佐八幡とも 深い関係で・・・
日本中に 八幡様が おるじゃない
秦氏の ハタだと思うわ
700年代にも 備前の 和気清麻呂に 宇佐八幡の御神託 だったっけ お告げを王家が確認に行かせた
この時代 伊勢神宮は まだ 無かったみたいだ???
備前 みまさかの 出の官僚の 和気清麻呂公が 猪の軍団に見守られて 宇佐に行った(大分県まで)
道鏡事件や
弓削氏の坊さんが 道鏡で
この弓削氏というのも 美作 津山の 南10数kmに 弓削氏の村がある
仲山太の チュウザン神は 弓削氏を 津山から 追い出した 立場だったかも 知れない
これは 美作二の宮 の 古代史にも 少し書かれているみたいで・・・
ここで 交野物部が どうも 弓削氏と繋がっているようにも読めるんだ 
まあ よく解からないんだ 昔の時代のことじゃから・・・
なんか そんで 交野物部を追い出して 負けた交野物部は 毎年 鹿の頭2頭を 献上するとか なんとか 書いてある
鹿の頭を献上するというのは 長野県の諏訪大社じゃないのって 諏訪大社ともなんか 備前は繋がってくるんだ
諏訪大社と 秦氏 というキーワードでも 調べると何かと不思議なことが多いんだ

シルクロードと秦氏 備前 キビの国 みまさかの国 出雲の国 ヤマト王権 平安京 山背川(現在の淀川)
そんで 九州では宇佐八幡

聖徳太子が実在しなかったら そんなら 四天王寺は 誰が建てたんやろう とか?
どないになってるんじゃ このわが国の 歴史は?
・・・・・・・・・・・・・
などと 瞑想しとるんじゃ 
大阪港の京都からの淀川の出口
大阪の海の玄関に 5550m2の 港の土地で 日々 スクラップを買って 海外に送る仕事をしてるトーナイ

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする