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倭王、応神の要請に応え阿直岐を?王仁を 派遣した 坂上田村麻呂の始祖(アテルイエニシ討伐)

2016-07-20 06:29:35 | 古代史の勉強のカテゴリー
ダウは何処までも連日続伸 VIX指数は12ポイントを割った
投資家の心理は改善している
海外の銅相場は 5000$は いかないな~4982$か
ニッケル10465$ ニッケルは産地のフィリピンの問題もある
銅も原産地に問題が発生して 一気に急騰するようなことにならんかね 主要な銅の鉱山付近で 住民運動 鉱山の鉱毒問題などが出てくれんか
中国の銅は38600元(15.82=61万円)と 此のところの最高値 付近 これには意味がある すぐにも戦争が起るのではないかと 中国国内では 噂が出ている
海南島は 中国南部の 軍事拠点だが 緊張しているみたいだ
海南島は 現在 高級別荘地帯のようになっているが 実は中国軍の拠点である 話を戻して・・
IMFは先の成長見通しを下げたが それでも3.1%今年は成長する見通し 来年は世界の成長が3.4%とされた
世界の成長が3%もあるならば 銅の消費も増えるはずである
ちなみに IMFの中華の成長見通しは6.6%+である
思ったよりも 中華の経済は落ちないとIMFはみている
こんな見方があるので この月の海外の銅相場も4600$を下廻らないのでしょう
4600-4950付近に長いこと居ている
そういうことなので 現在 の銅価格は 最低ラインに位置していると考えたい
嘘でも こんな風に書いていたほうが良い
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以下は超古代史の自習 東内誠(昔 藤内)
 
天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。〔この和邇吉師が、文首(ふみのおびと)の始祖である〕
 
和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。
『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない。
帰化した複数の帰化人学者が、『古事記』編纂の際にひとりの存在にまとめられたのではないかとされる説もある。
 
『応神天皇16代天皇』の頃のことならば 西暦400年代過ぎには 漢字が 日本に渡来していた はずだが・・
まったく解らない 解決しない・・・
 
和邇氏(ワニ)和邇の里 琵琶湖の湖畔
王仁=ふみのオビトの始祖である
 
漢字は中国から 百済を経由して 日本へ来た
 
400年前後には 馬(午飼いの渡来系も来た)馬を飼うことが専門職だったようだが
馬を操れること 馬を育て 保有することは 今で言うたらば 自衛隊の戦車などを保有するということでもある
 
先日 立ち寄って立ち話をした 堺市の博物館の先生は
馬は それ以前からも ニッポンにいたような事を言われていたな~
埴輪から それが 解るワケであります
 
縄文時代の 土器などにも 馬の絵はないじゃない
 
後の時代 西暦では700年代 東北のヤマト朝廷に逆らった アテルイたちは馬を飼い 馬で移動もしたと思う
アテルイ伝説でも 青森県に馬を育てる一族がいた
 
そうやヤマト朝廷がエニシを征伐に向ったのが700年代
 
そのアテルイの親子は 京都の清水の寺を下ったところに碑が残されている 坂之上・・・名前が出てこない
 
坂上田村麻呂 征夷大将軍(夷を倒す役目の将軍)
夷とは 夷賊いぞく ヤマト朝廷のいう事を聞かなかった物 者 モノ
坂之上田村麻呂は 始祖が 阿知使主の子孫を自称した
阿知使主=阿直岐 のような感じだね???
 
あちし あちき あちのおおきみ とは どうも 百済から 来た 応神天皇の時か 仁徳天皇の時に百済から来た
知識人みたいだが どうでしょう
 
 
 
ネットで以下のような書いた人のモノを見つけたのでメモ
 
こうして百済は高句麗と新羅に対抗するために伽耶地域の卓淳国を通して倭に接近したのでした。
新興勢力の新羅も倭を敵に回すのは得策ではなく、友好関係を築こうとします
倭はかねてより交易面で伽耶とはかなり深い関係を持っていましたが、これを期
に半島南部一帯への進出を図ります。そして百済・新羅の立場につけ込んで進出を実現したのでした。
百済の近肖古王は倭と友好関係を結ぶとすぐ369年に馬韓と帯方を併合し、倭王には七支刀を送って同盟関係の強化を図ります。背後を固めた近肖古王は南下政策を取る高句麗に対して進軍し、371年には平壌城を攻略し古国原王を殺害します
領土を大きく広げた百済は都を慰礼城から漢城に移し最盛期を迎えます。
この頃には阿直岐の渡来があり、近肖古王は阿直岐の進言を受けた 倭王 応神の要請に応えて王仁を派遣し王仁はわが国に論語と千字文を伝えたと言われます。
王仁は楽浪郡か帯方郡にいた中国人を先祖に持ち、わが国に渡来する頃には近肖古王が百済に併合した馬韓の地に居住していたのではないかと考えられます。
しかし391年に高句麗で広開土王が即位すると、楽浪に進出していた百済や倭の軍隊を攻撃し、396年には百済は高句麗軍に破れて漢江以北の地を失ってしまいます
 
阿直岐と阿知使主
応神15年に百済王は阿直岐(アチキ)を遣わして良馬2頭を献上しました。
阿直岐はその馬の飼育も任されたのですが、よく経書を読みましたので、その教養の深さに惚れ込んだ応神は、阿直岐を太子菟道稚郎子の学問の師とされました。
応神が阿直岐に「お前よりすぐれた学者がいるか」
と問われました。いるわけがないだろうという感じです。
しかし阿直岐は「王仁とうすぐれた人がいます。」と答えました。そんな人がいるのならすぐに寄越して欲しいというのが応神の願いでしょう。
こうして王仁が遣わされてくるのです
 
継体大王の時代に百済から
漢高安茂という五教博士が来日します。これを見れば漢という名の一族が百済にいたということが考えられます。
そうすると倭漢氏は安羅からの人ではなくて、百済系の人ではないかと考えること
も出来るのです。
倭漢直氏の中で有名なのは駒でしょう。
駒は蘇我馬子の命令で崇峻天皇を殺害しています。
崇峻は馬子の妹小姉君の子ですから、馬子は甥を殺害したことになります。
駒のように蘇我氏に臣従することによって倭漢氏は繁栄し、多くの氏族に分かれていきました。有名なのが坂上氏で、征夷大将軍となった坂上田村麻呂もその一族です。
田村麻呂の父である苅田麻呂が宝亀3年に郡司の選任に関して光仁天皇に言上したことが続日本紀に記されています。
ここに出てくる檜前忌寸(ヒノクマノイミキ)とは倭漢直氏が天武天皇から与えられた姓です。「檜前忌寸の一族をもって、大和国高市郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主が、軽嶋豊明宮に天下を治められた応神天皇の御世に、朝鮮から十七県の人民を率いて帰化し、天皇の詔があって、高市郡檜前村の地を賜り居を定めたことによります。
 
 
神功皇后は新羅遠征のとき孕んでいた子が生まれないようにと石を抱いて行き、帰国後に応神が
生まれたということになっています。これは応神のルーツをわが国とするための作為であって、実
は神功が半島から応神を連れ帰って来たことを表しているのではないのか。とすると熊津は応津であることと考え会わせて、
応神は熊津百済の人であるということになります。
このように推測しますと、応神は百済語を話していたのであり王仁とは通訳なしで話すことが出来たでしょう。
そして、百済または伽耶と関係の深い宮主宅媛を寵愛し、その子菟道稚郎子を可愛
がったことがすんなりと理解出来るわけです。果たして真実はどうなのでしょうか
 
倭には応神時代に王仁が論語と千字文を伝えたと言われますが、実際には継体時代に五経博士が来日したのが、中国文化特に儒教伝来の最初ではないでしょうか。
そして538年(548年とも552年とも言われる)聖王は欽明朝に釈迦仏の金堂像と教典数巻をもたらし、上表して仏教礼拝の功徳を述べ伝えています。
欽明帝は仏教を受け入れるかどうかを一人では決めかねて群臣らにその是非を尋ねました。
蘇我稲目は西の国々はみな礼拝しているとして受入を是としますが、物部尾輿や中臣鎌子らは国つ神の怒りを受けることになるとして反対
 
神功皇后のお子は 応神天皇 その次の代が 仁徳天皇 この辺りの時代 もっと調べたいトーナイ

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