今日は朝から気温上昇してますわ~
もうすべて投げ出して、冷房生活していたい心境 しかし、今日は午前9時~午後1時までボランティア活動があるのでやむなく午前8時に日傘を差して出かけました。
ボランティア終了後、正に一番気温高い時間帯に帰宅 日陰を探して・・・・。
空腹のため、自宅近くのフードコートへ立ち寄り、長崎ちゃんぽんを注文。それも「麺の量が1.5倍サービス付きを注文します」。販売員さんはちょっと不思議そうな顔して「1.5倍増ですね」
それから20分後、私は完食 これで夏バテ回復かもしれませんね。神奈川県の花「山百合」
内村の頭の中には、2004年アテネ五輪体操男子団体総合の日本の金メダルは鮮烈な記憶として刻まれている。中学卒業を機に長崎から上京し、朝日生命で練習に励んでいた頃。「金を取ることのすごさは高校生だから分かるし、うまくなるために東京に出て来ていた。いろいろ重なってすごい衝撃度だった」。そこから内村の目標はぶれたことがない。
しかし、一緒に戦う他のメンバーは団体の金に対して、内村と同じレベルの渇望感を抱いてはいなかった。12年ロンドン五輪で内村がオーバーペース気味だったのも、周りとの温度差を感じ、「自分がやることで気付いてくれるかな」という思いがあったからだった。その差が、14年の世界選手権で一気に縮まった。
男子団体総合で、日本は地元の中国に0.100点差で敗れて2位だった。日本は5種目を終えた時点でトップに立ち、中国より先に演技した鉄棒もミスなく終え、勝利を確信していたが、まさかの逆転負け。内村は開いた口がふさがらず、加藤、田中、白井もぼうぜんと電光掲示板を見詰めた。
加藤の父で、日本代表コーチの裕之さんは、表彰式でもらった花束を悔しそうに放り投げた加藤が「航平さんはいつもこういう気持ちだったんだね」と言ったのを覚えている。白井は大会前、「航平さんが団体第一と言っていたので、あまりよく分からないまま、団体優勝したいと言っていた」。白井も、経験したことがないほどの悔しさを味わい、団体戦への思いが募った。翌年の世界選手権で内村、加藤、田中、白井は今度は優勝の喜びを分かち合い、さらにまとまった。
アテネ五輪で主将を務めた米田功さんは当時、一丸となって金メダルを目指すために「金メダルに関わる会話をずっとしておきたかった。違う話をしていたら、そっちに向かわせるよう意識した」ことが結果につながったという。予選で4位と出遅れたが、一つの目標の下に結束した5人は決勝で見事に挽回してみせ、大輪の花を咲かせた。(時事)