農夫はこう言います。
「私はこうやって、畠を耕(たがや)している。
あなたは何をしているのですか?」と。
すると、お釈迦さまは次のように答えたといいます。
「私は(人の)心(の畑)を耕しているのだ」と。
農夫はその言葉を聞き、すぐさま出家し、お釈迦さまにしたがったといいます。
この農夫の心のうごきを、
なぜ、そんな行動にでたのか、考えてみたこともありませんでした。
今、ふっと心に情景が浮かんできました。
私たちは現在、
人類が築きあげてきた文明の果実を、(かなり多くの人々が)享受(きょうじゅ)しています。
とくに、インターネットの発達は驚異的なものがあります。
知り得ない情報はありません。
しかし、
そのなかで、
ほんとうに必要な情報は得られているのでしょうか?
私たちはまず、
自分が何を求めているのか、
何を必要としているのかを問わなければなりません。
自分の心に問いかけるのですが、
それはそれで、とても難しいことなのかもしれません。
ですから、
私はシンプルに考えています。
私が今、
こうしているのも、
この世に生まれでなければ、
なかったわけですから、
この世に生んでくれた、親の思いを考えることが簡単であると思います。
身近な親の思い、
そして、この世、人間をつくってくれたかたも、親でしょう。
その心を推測することが、とても大切な気がします。
どんなにささいなことでも、
必ず何か
思い当たることがあります。
問題は、
情報がないことではなく、ありすぎることです。
私たちは今、
情報過多(かた)で、
情報の海に溺(おぼ)れているかのようです。
誘惑はいたるところにあって、
若い人にとって、
その誘惑から逃れるのは、
至難のわざでしょう。
冒頭(ぼうとう)の農夫にとって、
幸運なことに、重い労働と、
情報などほとんどないであろう時代に、生きていました。
黙々(もくもく)と畑を耕す行為のなかで、
この世を生きていくうえで、
ほんとうは何を、自分(の本心)が望んでいるのかを、
知っていたのだと思います。
忙しく、情報の渦(うず)のなかにのみこまれるのではなく、
長い淡々(たんたん)とした労働は、
深い洞察を心に浮かばせたのかもしれません。
この世になぜ、
人間は生まれてきたのかなどと、今の人は考えているようにはみえません。
科学が、
めまぐるしく変化する日常が、
そんなことで時間を無駄にしてはいけないと、
いっているかのようです。
ほんとうは、
学校に行って、まず、基礎的な勉強、学問といったものを学ぶよりも、もっと、
その前に学ばなければならない、大切なことが人にはあります。
農夫はそのことを、
自分の本心が、
渇望(かつぼう)していたことがわかっていたから、
お釈迦さまの言葉が、
自分が長年捜し求め、渇望していたものを満足させる言葉だと、
すぐにわかったのだと思います。