このことを言ったとか、いわなかったとか。
でも、妻が言った「お父さんは耳が遠くなったよね。」という言葉に、カチンときました。
確かにそうなのかもしれませんが、まだまだそんなに、言われるほどのものではない、という気持ちがありました。
ですから、そのとき、何も言わず、聞き流して、黙っていれば、なにごともないのがわかっていたのに、つい言い返してしまいました。
それからが、大変なことになりました。😰
妻が口をきいてくれません。
二日後、わたしがあやまったとき、妻はこう言いました。
「お父さんは、私のことを嘘つきと言った。」
と言うのです。
そんなことは言ってないはずですが、そんなニュアンスになってしまったことは否定できません。
私は最近とくに思うのですが、嘘ということについて、ある思いをいだいています。
兵庫県知事の「嘘八百」発言、なんてのもありましたね。
元総理は、桜を見る会のことで、(国会で)百何回か嘘の答弁をしたとか…
〇〇〇〇氏は、息をはくように嘘をついていた、なんてのもありましたね。
人は苦しまぎれに、うそをつくことはありますし、立場上、うそとわかっていても、うそをつき続けなければならないときだってあるでしょう。
政治家はとくにそうなのかもしれませんね。
ただそれが、人の死につながったりしたのであれば、いいわけなどできませんが…
ただ、かわいそうでたまりません。
うそをつき続ける人のその後を考えると、私のなかで慄然(りつぜん)とするものがあります。
なぜなら、(私からすると)このことはたましいの問題だからです。
うそを言ったら、そのものがうそになるよ。そのことを、ちゃんとわかって、(あなたたちは)うそをついているのですか?
これは、神言(しんげん)です。
この世界、自然は、真実によって成り立っています。
コスモスの種をまけば、コスモスの花がさきます。
コスモスの種をまいたら、バラの花がさいた、なんてことは絶対ありません。
太陽が、何十億年もはたらき続けているので、一日ぐらい今日は(親が死んだのでと、うそをついて)休みます、なんてこともありません。
この世界にうそはありません。
人間だけが、うそをつくのです。
この世界(自然)に、うそは存在しないので、うそをつくということは、そのものがうそ(存在しないもの)になってしまうのです。
お釈迦様は、嘘も方便と、一定の理解をしめしましたが、神言はなんというか、とてもその点では厳格ですね。
元総理が、あんなにも堂々とうそをつき続けているのを見て、(こんな言い方をしていいのかわかりませんが、)とてもかわいそうな人だなぁ、私だったら、恐ろしくてそんな立場から、すぐにでも逃げてしまうのになぁと、ずっと思っていました。
今日の早朝、ラジオを聞いていたら、群馬県知事の山本一太さんが、こんなことを言っていましたね。
一太さんは、自民党の元参議院議員で、〇〇元総理の応援団長を自認していました。
「〇〇総理は、信義のあつい人だった」
それもまた、〇〇元総理の一側面であり、真実なんだと思います。