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時の関守

悪夢 (3)

田舎の地方都市で起きた、少しショッキングな出来事。
それも、被害者はだれでもが知っている公立高校の、そこの教師。
銃撃事件という、普段めったにない出来事でしたから、とても印象に残っていました。

(個別の)名前とかは、全然わかりませんが、事件そのものは、はっきり覚えています。
なぜなら、これまで(ブログに)書いてきた婦人の、(高校教師をしていた)息子さんというのが、新聞に載っていた被害者だったのですから。

その婦人は、晩年になって、たった一人残った息子さんまで亡くすこととなります。
私は、直接的には、その老婦人のことは、まったく知りません。
ですが、不思議な縁で、間接的にではありますが、一人の女性に起きた物語の顛末(てんまつ)を知ることとなりました。

もちろん、私が聞いて知ったことは、その女性のほんの表面的な出来事でしかありません。
親にした仕打ちが原因で、このような顛末になったなどと言いたいわけでもありません。

私たちは物語を生きています。
そして、人間は必ず、まちがいを犯しますので、何らかの(物語という)因果(いんが)のなかに巻き込まれてしまうのも、しかたのないことなのでしょう。
物語が悪いわけでもありません。物語を生きるということは、ある意味、私たちがこの世に生まれてきた目的でもあるのですから。

だからといって、やはり、物語は物語でしかないというのも事実でしょう。
人間というものが、実はたましいの存在なのだと、もし思えるならば、人間を苦しめる物語はなくなるはずです。
もちろん、それが物語であることが、本当は夢だったんだとわかったとしても、痛みまで消えるわけではありません。

しかし、人が物語を味わいつくして、たましいに戻ったとき、そこで味わった経験というものは、大きなよろこび、満足感となるのだと思います。
旅をおえた旅行者が、その疲れを癒しながら、その旅で得た経験、知恵を多くの人と分かち合うことは、大きな喜びとなるはずです。
ただそこには、純粋なよろこびだけが残ることになります

なぜなら、どんな過酷な人生も、どんな裏切りも、たましいに1ミリたりとも傷つけることはできなかったのだと、そのとき、気づくはずだからです。

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