天理教の創世神話では、
この世のはじまりは泥海(どろうみ)であった、と書かれています。
そして、
そこには月日という両神がいるばかりで、
とても味気(あじけ)ない思いをしていたのだ、
と述べられています。
この世、人間を創造するような偉大な神の、その心情が述べられていて、
とても不思議な気がします。
つまらなかったなどと言わずに、味気ないというのも、
なにかわかる気がしませんか?
私は泥海といった表現が、
とても味わい深いものと感じております。
神話というものは、
この世のはじまりを、
人間にわかりやすいよう、
物語にしたものだと思うのですが、
この世がはじまる以前のことを、
この世界の言葉で説明しなければならないというのは、
矛盾していますし、とても難しいものだと思います。
この世のはじまりというからには、今この世にあるものが、なかったということでしょう?
この世にある法則、
秩序がまだ存在していない状態、まだなにも存在していな無の状態を、
泥海という言葉で現したのだと解釈しています。
イメージとしては、深い深い漆黒(しっこく)です。
時間はまだ存在していません。
泥海といっても、そこに物質(もの)はありません。
ただ、たましいの原型のようなものが、あったのかもしれません。
そんな暗黒のなかに、
月日という神の、ぼんやりとした姿があらわれました。
暗黒のなかに、かすかな、まだぼんやりとした薄明かりです。
その月日両親が、相談したとされています。
「月日両親がいるばかりで、とても味気(あじけ)ない。
人間というものを創造(つく)って、
(その人間というものは、
言葉もしゃべり、
手足を自由自在に使う、
とてもちょうほうなものであるから、)
その陽気ぐらしをするのを(神が)見て、ともに楽しもうと思いつかれたのだとあります。」
文中の「ちょうほう」という言葉を、漢字に直すと、
重い宝と書きます。
人間とは、その他の、虫、鳥、家畜、動物とくらべると、
あたかも、重い宝をいただいているようなものだよ、と言われている気がします。
私がまだ若いとき、まだ小さな子供を連れて牧場に行ってきました。
牧場のなかに
小さな小川があって、
子供たちが夢中になって遊んでいます。
私たち夫婦は少し離れた場所で、芝生に寝ころびながら、
その風景をながめていました。
とても、幸福な瞬間でした。
もし、何かあっても、
走っていけば間に合う距離です。
ふと、「神はこの世の人間を、こんなふうに(まるで子供が遊んでいるかのように)眺めているのかなぁ。」
そんなことを思いました。