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時の関守

この世のはじまり (5)

この世のはじまりについて、
天理教の創世神話では、
この世のはじまりは泥海(どろうみ)であった、と書かれています。

そして、
そこには月日という両神がいるばかりで、
とても味気(あじけ)ない思いをしていたのだ、
と述べられています。
この世、人間を創造するような偉大な神の、その心情が述べられていて、
とても不思議な気がします。
つまらなかったなどと言わずに、味気ないというのも、
なにかわかる気がしませんか?

私は泥海といった表現が、
とても味わい深いものと感じております。
神話というものは、
この世のはじまりを、
人間にわかりやすいよう、
物語にしたものだと思うのですが、
この世がはじまる以前のことを、
この世界の言葉で説明しなければならないというのは、
矛盾していますし、とても難しいものだと思います。

この世のはじまりというからには、今この世にあるものが、なかったということでしょう?
この世にある法則、
秩序がまだ存在していない状態、まだなにも存在していな無の状態を、
泥海という言葉で現したのだと解釈しています。

イメージとしては、深い深い漆黒(しっこく)です。
時間はまだ存在していません。
泥海といっても、そこに物質(もの)はありません。
ただ、たましいの原型のようなものが、あったのかもしれません。
そんな暗黒のなかに、
月日という神の、ぼんやりとした姿があらわれました。
暗黒のなかに、かすかな、まだぼんやりとした薄明かりです。
その月日両親が、相談したとされています。

「月日両親がいるばかりで、とても味気(あじけ)ない。
人間というものを創造(つく)って、
(その人間というものは、
言葉もしゃべり、
手足を自由自在に使う、
とてもちょうほうなものであるから、)
その陽気ぐらしをするのを(神が)見て、ともに楽しもうと思いつかれたのだとあります。」
文中の「ちょうほう」という言葉を、漢字に直すと、
重い宝と書きます。
人間とは、その他の、虫、鳥、家畜、動物とくらべると、
あたかも、重い宝をいただいているようなものだよ、と言われている気がします。

私がまだ若いとき、まだ小さな子供を連れて牧場に行ってきました。
牧場のなかに
小さな小川があって、
子供たちが夢中になって遊んでいます。
私たち夫婦は少し離れた場所で、芝生に寝ころびながら、
その風景をながめていました。
とても、幸福な瞬間でした。
もし、何かあっても、
走っていけば間に合う距離です。
ふと、「神はこの世の人間を、こんなふうに(まるで子供が遊んでいるかのように)眺めているのかなぁ。」
そんなことを思いました。


コメント一覧

1948219suisen
先ほど、

「だから書かれてあることはよく理解できます」

と書いてしまいましたが、書き方が傲慢だったと思います。

「書かれてあることは聞いたことがあります」に訂正します。
1948219suisen
私も亡くなった叔母が天理教を信仰していましたから一時は天理新聞も購読していました。だから書かれてあることはよく理解できます。またお話聞かせてください。
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