信仰のことをしっかり考えるなどということが、
今の若い人の関心ごとではないことはわかります。
ただ、私からすれば、
少し誤解がある気がします。
信仰とはどんな人間の営みなのでしょうか?
私はこう思っております。
信仰とは人が生きるということ、そのものであると思っております。
私の今は亡き叔父が、
こう言っていました。
「信仰はね、人は一日三食ご飯を食べるよね。
それと同じことだよ。」と。
そのとき、なるほどそうだと思って、
なにか肩の力が、すっとぬけたのを覚えています。
ただ、
そのことを人に説明できるかというと、できなかったのですが、今だったらできます。
信仰というものが、
日常とはまったく違ったものを連想させるのであれば、
それは信仰という言葉に、惑わされているかもしれません。
なぜなら、
信仰とは、
私たちがこの世で生きるということを、
とてもシンプルに表現しているだけなのですから。
私たちの生活のなかで、必要のないことがたくさんあります。
いじめなど必要ありません。
いじめは犯罪です。
犯罪として裁かれる以前に、
どれほど自分のたましいを曇らせているか…。
自分の幼稚(ようち)な考え方や、自分中心の考え方で、
人を批判すること、
人をうらむこと、憎むこと。
すべて自分のなかの、自分でもはっきりわからない動機が原因です。
「なんかあいつを見ていると、いらいらする。」
だから、いじめる。
自分がばかにされた気がする。
無性に腹が立って、相手を批判する。
私たちの日常では、ある意味、日常茶飯事(にちじょうさはんじ)ともいえます。
問題は最初の出発点が、心の出発点が無意識であったり、
よくわからない気分であるという点なのです。
私たちが生きるとはどんなことなのでしょうか?
心という動機、原因(種)があって、あらゆること(結果)が起きてきます。
霊的教えが示していること、
この世のことが、どうして起きてくるのかということは、
その一言で説明できるのです。
とても、シンプルで簡単でしょう。
しかし、私たちはこのように生きていません。
ほとんどのこと(最初の動機)を無意識に生きています。
ですから、結果が現れたとき、驚くのです。
ほんとうは、心の動機が種となって、結果がかならずうまれています。
そのことをちゃんと意識し、
心の動機(出発点)がはっきり意識されていれば、
その結果については、
結果がどうあれ責任をとることができます。
自分の動機にまちがいがあれば、まちがった結果も受け入れざるえません。
自分の動機をはっきり意識していないから、その結果が自分の思いどおりではないと、結果を受け入れることができないのです。
思っていたようには、
願っていたようにはなっていないようにも(この世のことは)見えますが、
ちゃんと心の種どおりに結果が生まれているのです。
信仰とは、このことをシンプルに言っているだけなのです。
信仰というものが、
何か非日常で、特別なものと感じているのなら、
自分がどれほど、
日々(ひび)無意識に生きているかを、心というものを無自覚に使っているかを気づかなければなりません。