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時の関守

芹沢光治良先生のこと (3)

友人がすべて、段取りしてくれていましたので、無事、先生とお会いすることができました。
今、そのときのことを、こうやって思い出していますと、
よほど緊張していたのでしょうか、先生のお宅の様子、
先生のお姿など、ほとんど覚えておりません。

ただ、
先生の作品を読んでいる読者にしてみれば、
先生の、作品の登場人物に対する容赦(ようしゃ)のない批判、
厳しい言葉を、本を通して目にしていましたので、
先生については、無意識に、
峻烈(しゅんれつ)で、厳格のものを想像していました。

しかし、お会いしてみると、
そのイメージが今度は、真逆となりました。
まるで慈父に会ったかのような、
穏(おだ)やかで温かいものが、そこにありました。
耳がお悪い先生は、耳に両手
をあて、一心に話しを聞こうとされて、その姿だけはよく覚えております。

でも、私はそのとき、
先生にお会いすべきではなかったと、今になると思います
当時、私の興味の対象は、
神学的議論や、
神学的解釈で、
無謀(むぼう)にも、先生にお会いしたら、その解答が簡単に聞けるかもしれないなどと、そんなことを考えていました。

友人も話すことがあったのかもしれませんが、
まず、私が話しだしました。
難解な神学の解釈について、
お聞きしました。
今思いだしても、恥ずかしく感じます。

先生には今、神様がついているとのことのようなので、
どんな難問でも簡単に解答が返ってくるのだろうかと、
興味もありました。
しかし、10秒、20秒、30秒と沈黙が続きました。

私は
一瞬、
私の問(とい)が難解すぎて、
答えられないのだろうかなどと、
ばかなことを考えていました。

すると、
芹沢(せりざわ)先生の口から、わたしの思ってもみなかった言葉が、飛び出しました。



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