そのなかには、身体に生まれつきの変形をもっている方、特に顔に変形をもっている多くの人が地方から訪れます。
大学病院であれば、もしかして治してくれるかもと、期待して訪れるのですが、診察だけで終ってしまいます。
すると、みんなが本当に、悲しそうな顔をして、帰っていったといいます。
その姿を見て葉室氏は、自分がそんな人たちを、幸せにしたいと思ったのだそうです。
それが、当時存在していない形成外科を志(こころざ)した理由です。
その志しを、天がよしとしたのでしょうか。
さまざまな導きをへて、氏は形成外科医になります。
そして、その40年後に氏は、はじめて(最初から最後まで完璧に)神さまの導きによる手術ができたのだそうです。
それは、氏の子供のころからの信仰的環境、生来の慈悲の心の発露といったことが、それを成し遂げたのかもしれません。
そして、それは、現代人が考えるような医師像とはまったく、違ったものでした。
氏は言います。
「医者は、これだけひどい変形なのだから、これだけ回復したら充分と考えますが、患者さんは満足していません。
患者さんの希望に応えるためには人間の力による手術では不可能で、神さまのお導きによる手術をやらない限り、百パーセントの結果は得れないと思って、私は祈りということを始めたわけです。
…我(が)の手術はやめよう。
私が医者として患者を治すということをいっさいやめよう。
神さまのお導きによって手術させていただく。
こういう心境で手術をしようというので、祈って、無我になったつもりで手術室に入って手術を始めるわけです。
しかし、…ああ、今日もだめだったな。その連続です。
僕は還暦過ぎて
62~63歳ぐらいだったか、生まれて初めて神さまのお導きによる手術を始めから終わりまでできました。
…その結果がよくもこんなにきれいになるなというほどの成功でした。」
ここには、神と科学の対立はありません。
幸せな結末だけがあります。
それは、なぜなのでしょうか?
どちらも(宗教も科学も)、人間の幸福を願って始まったはずなのに、うまくいかないのは、途中から我というものが入ってしまうからなのでしょう。
宗教であろうと、科学であろうと、いつの間にか自分が偉くなってしまうのかもしれませんね。
最初から、高ぶる人などいません。
そんな人ほど、最初は謙虚に、人一倍の努力をおしまないものです。
それを天はよしとして、その志しを助けたのかもしれません。
でも途中から、それが自分の手柄(てがら)のように思ってしまい、天からの綱を、みずから手離してしまうのでしょう。
ガリレオは科学者として、実は、神の摂理を解き明かしたかっただけなのかもしれません。
科学者も信仰者も関係ありません。
どんな立場にいるものも、そこに(神との)コミュニケーションがあったかどうか、そのことが、幸せな結末を迎えるための鍵なのだと思うのです。