私はそのとき、偶然その言葉を耳にしましたが、正直そのときは、その言葉がとてもありふれていて、平凡な気がしていました。
しかし、私も歳をとり、それなりの人生経験をつんできた今であれば、それは平凡でもなんでもなく、とても大切な言葉だったことがわかります。
平凡どころか、人はたとえば、生まれて来たとき、親に愛されたどうかによって、親を信じることを学び、
次に、その信じている親に愛されていることによって、自分を信じることを学びます。
もし、そこで、その前提が失われると、その前提を知るためには、大変な努力をして探そうとするのだとわかりました。
自分を信じること、その次に人を信じること、それができないと、人はあたかも、荒野に一人取り残されたような人生を送ってしまうことになるのだと思います。
神があるとき、人間を創造(つく)ろうと思いつかれたのだそうです。
どんな証拠があるのだと聞く人もいるかと思いますが、親(神)がそう言っているのに、証拠がないと信じられないというのも、ちょっとどうなのでしょうか。
親が(私が)お前を生んだんだよ、そのときの状況はこんなだったよ、大変だったんだよ、そんな説明で充分納得できるはずです。
なぜなら、証拠は、この私がこの世に存在しているということ。この存在しているという、まさにそのこと以上の証拠はないからです。
それ以上に、どんな証拠が必要というのでしょうか?