カストロが倒される日
【橋本勝さんのコメント】
イラク情勢はどんどん悪化,おまけにラテン・アメリカでは左派政権が次々と誕生し反米の勢いは強まるばかりと,ブッシュさんも頭が痛い。そんな中で朗報が,キューバのカストロ議長,重病のニュース。何しろケネディ,ジョンソン,ニクソン,フォード,カーター,レーガン,ブッシュ(パパ),クリントン,そしてブッシュとアメリカではこんなに多くの大統領が代わっている間,キューバのリーダーであり続けたカストロ。自由主義のアメリカの鼻先にある社会主義の国。武力侵攻にも,経済制裁にも,冷戦構造の崩壊にも耐え抜いたキューバに,最大のピンチである。
そんな今,ブッシュは夢を見た。あのレーニン像や,フセイン像にように,巨大なカストロ像が民衆によって引きずり倒されるのを……でも残念,キューバにはカストロ像など全くないことを,ブッシュさんはご存知なかったのだ。
【ヤメ蚊】
ブッシュのことだから,キューバってイラクの横にあるって思っているかも…
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【橋本勝さんのコメント】
イラク情勢はどんどん悪化,おまけにラテン・アメリカでは左派政権が次々と誕生し反米の勢いは強まるばかりと,ブッシュさんも頭が痛い。そんな中で朗報が,キューバのカストロ議長,重病のニュース。何しろケネディ,ジョンソン,ニクソン,フォード,カーター,レーガン,ブッシュ(パパ),クリントン,そしてブッシュとアメリカではこんなに多くの大統領が代わっている間,キューバのリーダーであり続けたカストロ。自由主義のアメリカの鼻先にある社会主義の国。武力侵攻にも,経済制裁にも,冷戦構造の崩壊にも耐え抜いたキューバに,最大のピンチである。
そんな今,ブッシュは夢を見た。あのレーニン像や,フセイン像にように,巨大なカストロ像が民衆によって引きずり倒されるのを……でも残念,キューバにはカストロ像など全くないことを,ブッシュさんはご存知なかったのだ。
【ヤメ蚊】
ブッシュのことだから,キューバってイラクの横にあるって思っているかも…
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読売新聞飯塚恵子記者が英軍に同行してサマワ自衛隊を取材しようとして拒否されて(ここ←クリック)1年後,彼女は二度目のチャレンジをしていた。しかし,このチャレンジは,「官邸の高官」からの衛星電話で拒否された…。なぜ,このことを騒ぎ立てないのか?政府だけでなく,この事実を伝えなかったマスメディアに抗議の意味を込め,新聞研究8月号に掲載された記事を全文引用する。
■■引用開始■■
イラク取材記・再びサマワへ
報道拒んだ日本政府の閉鎖性
-イラク自衛隊活動に対する詳細な検証を
読売新聞社ロンドン支局 飯塚 恵子
五月三十日から六月八日まで、英軍の保護のもと、イラク南部を取材した。サマワで復興支援活動をする陸上自衛隊について、日、英両政府と調整のうえ、三日間の取材日程を組んでいたが、当日朝になって、日本の首相官邸の指示で中止になった。“危険地域”イラクでの二年半にわたる陸目の活動は、二〇〇四年四月以降、日本人記者による直接取材がないまま、六月二十日、撤収命令が出た。今回のイラク取材を振り返り、自衛隊の海外派遣と報道のあり方について考えた。
事前調整の経緯
「6月1日 15・00 サマワ宿営地到着。16・00 全般説明。16・30 夕食。17・30 入浴。19・00 取材。 2日 6・00起床。6・30朝食。8・30 取材。12・00 昼食。 13・00取材…」(取材メモより)
六月一,二日の両日、サマワの陸自衛宮地で進むはずだった滞在日程だ。すべて幻となった。
今回の奨軍に同行してのイラク入りは、当初から、陸目の取材が主眼だった。イラク第二の都市・バスラの英軍司令部基地を拠点に動きつつ、心は出発前からサマワに向かっていた。共に行動した本紙カメラマンの中村光一記者も同じだった。
イラクへは、昨年三月にも今回同様、英政府の協力を得て、南部の多国籍軍を統括する英軍に同行した。昨年は、サマワのあるムサンナ県から撤収するオランダ軍から英軍への治安権限移譲式典が取材のハイライトだった。
式典のあったキャンプ・スミッティは、川を隔て、陸目のサマワ宿営地の対岸にある。現場で、英軍に再三、陸目の取材を中し入れたが、「日本側の事情」で果たせなかった。
私はこの時、二回目の英軍同行のチャンスを狙おうと心に決めた。その際は日本政府に事前にきちんと陸目取材を申し込もうと考えた。
チャンスはほぼ一年後に訪れた。今年四月中旬、「実現しそうだ」という連絡が英政府から来たのだ。私は、英外務、国防両省に「今回はサマワで自衛隊を取材したい。自分で日本政府と折衝するので、サマワ行きを日程に組み込んでほしい」と要請した。
すぐに防衛庁幹部に連絡を取り、以下の二点をもとに、取材を申し入れた。
〈一,イラクへの自衛隊派遣は、日本の国際貢献のあり方、派遣の意義などをめぐって国民的な論議を呼び、国会でも広範に議論された。国際的にも注目されている。その活動ぶりが、日本人記者によって二年間も直接報じられないのは、不自然である。現地取材の機会があれば、認めるべきだ。
二、今回の取材は、英軍の完全保護のもとで行われる。現時点で、民間邦人が得られる最大限の警備と安全を、メディアとして確保したうえでの取材である。〉
イラクは危険だ。日本の外務省は邦人に「退避勧告」を出している。主要メディアの日本人記者も、〇四年四月、外務省に「速やかな退避」を求められ、サマワから一斉に引き揚げた。このため、今回の取材の実現は「安全確保」が最大のポイントだ、と私は考えていた。
防衛庁内では当初、困惑の声が多かった。昨年四月に計画した、防衛記者会(記者クラブ)のサマワ合同取材が首相官邸の意向で直前に中止になったことも背景にあった。だが、私は、自分たちが英軍の完全な保護下で行動することなどを繰り返し説明し、理解を求めた。
次第に「撤収前に一度、きちんとした報道があっていい」という支持の声が防衛庁・自衛隊内に広がった。支持は明確な指示に変わり、サマワの現場に届いたのだった。英軍と陸自が調整し、五月末、取材日程が固まった。
当日朝、一転不許可の通告
「サマワでは取材を受けない。一社の単独取材は認められない、ということだ」
六月一日午前五時過ぎ。サマワに向けて、バスラを出発する直前だった。約二十分間やりとりした衛星電話は切れた。相手は東京の首相官邸の高官。私が陸自取材のためにサマワに入ることを聞きつけて、連絡してきたのだ。
取材を認めない理由は、こうだった。
「あなたがロンドン特派員として、英軍に同行してイラクを取材するのは勝手だ。だが、サマワでの陸自取材は絶対にダメだ。他社も断っており、報道各社は横並びでないといけない」
私は「よその社は、ここまで安全を確保する努力をしたのか」と尋ねた。「それは関係ない」。最後に「安全が問題ではないのか』と念押しすると、答えは「その通り」だった。
直後に、防衛庁からも、全面的に方針が変わった、という電話が入った。
この急展開に、我々三人を引率するイクバル・ハミデュディン報道官(二十九歳、英海軍大尉)は、絶句した。
報道官は、我々二人の取材に当初から非常に協力的だった。「自衛隊は(サマワで)頑張っているのに、日本のメディアは滅多に来ないからね」と話した。
「フランスやドイツなど、政府がイラクに兵を出していない国のメディアも、英軍に警備を頼る形でイラクを取材している。日本も似たようなものだろう」
実際、今回の取材グループは、我々二人に加え、フランス国営テレビのマガリ・フォレスティエ記者とカメラマンのサラ・アクラピ記者、それにオランダ有力紙「NRCハンデルスプラット」のフローリス・uストラーテン記者の計五人だった。両国からは現在、イラクへの部隊派遣はない。
陸自取材について報道官は、この三人のプログラムとは別に、日程を組んでくれた。
サマワまでは、バスラから北西に片道約三百五十キロ。我々二人の警護のために、総勢十六人の英兵が同行し、装甲車三台、防弾仕様四駆車一台でのコンボイが組まれた。昨年三月のサマワ取材では、記者三人に対し、警護兵は四人だった。大幅な警備強化は、イラク南部の治安悪化を反映していた。
兵士らは、気温がセ氏四九度に達する中、装甲車の天井からヘルメットの頭を出し、四六時中銃を構えて四方を警戒し続けた。休憩を入れて片道計七時間。途中、装甲車のラジエーターの冷却水が沸騰し、修理する一幕もあった。
警備に関しては、防衛庁との事前調整で最後に 一つ、注文がついた。「英軍の保護下での取材」のため、陸自宿営地での我々の宿泊も「英兵の同伴が条件」とのことだった。そこまで英軍が便宜を図ってくれるか不安だったが、報道官は「わかった。自衛隊の取材が難しいことは聞いている」と上司の許可を取ってくれた。
このようにして、我々二人のサマワ行きは、警備計画がすでに動き出していたこともあり、事態の急変を受けても決行されることになった。サマワでは、陸自衛僻地の目と鼻の先にあるキャンプ・スミッティに宿泊地が変更された。
国際基準から外れた対応
六月二日夜、バスラの英軍基地に戻ると、我々の自衛隊取材が「失敗」した話は、各所に広まっていた。
基地内には、下士官向けの半ば野外のパブと、将校専用のラウンジパブがある。ロンドンのパブのビールは生ぬるいが、ここのはどれもキンキンに冷えている。一人一日五百ミリリットルのカン二本までの制限があるが、これが日々の楽しみ、と話す兵士は多かった。
夜、その半野外パブに行くと、居合わせた多国籍軍の各幹部や各国の記者に質問攻めにあった。
英陸軍高官は「部隊は普通、本国に活動の様子を報道されたいものだ。それが士気高揚につながり、国益にも資する。理解できない」と憤った。この高官は,日本の憲法と自衛隊の海外派遣の微妙な関係なども頭に入っていた。
イタリア軍の大尉は「日本軍は、何か報道されるとまずいことでもしているのか」と半ば冗談で我々を慰めた。
バグダッドから来ていた米星条旗新聞の記者は「単独取材のどこがいけないのか。危険地帯では、すべての新聞、テレビがそろう取材など、そもそも実現しないだろう」と話した。
オランダのストラーテン記者は「この事件は記事にした方がいい。国民も怒るはずだ」と私に勧めた。ハミデュディン報道官は「自衛隊はナゾだらけだ」とうなずいた。
後日談だが、ストラーテン記者からは、六月二十日に陸自に撤収命令が出た際、「自衛隊の特異性がよくわかるので、見聞きしたことをそのまま自分の新聞に書く」と連絡があった。
ブレア英政権は、イラク駐留英軍の活動PRに熱心で、外国人記者にも積極的に門戸を開く。イラク戦争後の約三年間で、延べ百五十人の外国人記者を現地に受け入れた。
我々がバスラ入りした五月三十一日、イラクのマリキ首相が現地に非常事態宣言を発令し、英メディアからも英軍同行への申込みが殺到した。報道官らは「危険のため、記者の警備が大がかりになった。円滑な取材日程を組むのも難しい」とこぼしていた。だが、英首相官邸は「今後もなるべく報道陣を受け入れるように」と指示を出しているという。
同行取材には限界もある。今回の取材は、英外務、国防両省の合同プログラムで、警護や旅費、食費などはすべて英政府負担だ。その代わり、取材相手や日程は、こちら側の要望を募りつつ、英軍が最終的に決める。
地元のイラク人に、軍が雇うアラビア語通訳を通して話を聞く時は、報道官がいつも脇にいた。イラク人は、英軍の批判めいた内容はほとんど話さなかった。このため、英軍に対する地元感情が実際はどうなのか、つかみかねた。
「HPで十分」という政府認識との差
制約もある同行取材だが、イラクの現場を体感する貴重な機会であることに変わりはない。
サマワでは、キャンプ・ スミッティの英軍広報が声をかけ、集まってきた通訳や英語教師ら地元住民約十人に話を聞いた。一斉に噴出したのは、陸自への不満だった。
「停電続きで、昨晩も一晩中、暑くて眠れなかった。冷蔵庫も使えない」「学校や橋も大事だが、電力はもっと大事だ。県外の親類から『ソニーやトヨタの日本が来て良かったね』 と言われるが、何も変わらない」「自衛隊はもっとサマワの町に自分で来て、地元の要望を直接開いてほしい」-
意外だった。陸自の復興支援活動は、イラク政府や地元住民のみならず、米英両政府や諸外国から高い評価を受けたと聞いている。実際、水の供給や医療・教育指導、道路や橋の補修など,サマワの生活基盤の改善に貢献したのは間違いないのだろう。
それだけに、厳しい自衛隊批判が続いたことに面食らった。英側が意図的に一握りの不満分子を集めたのでは、と一瞬疑ったほどだ。が、英軍広報も思わぬ展開に戸惑っていた。
前述の首相官邸高官は「自衛隊の活動については、ホームページなどで情報提供している」と主張した。だが、メディアが部隊の現場取材を怠り、チェック機能を果たせなくなれば、現代の「大本営発表」になってしまう。
サマワ住民の批判は、妥当なのか。熱気が体中にまとわりつく、日本ではあり得ない暑さを体験すれば、「電力」の検証にも手応えが生まれるだろう。自衛隊の次の海外派遣への課題も、具体的に指摘できるのではないか。
六月二十日の撤収命令後、額賀福志郎防衛長官が行った記者会見では、数々の活動実績の中で「電力」は触れられていなかった。
撤収命令が出てすぐ、新たな事態が起きた。
日本政府が六月二十七日、イラクへの英軍同行取材に日本の報道機関の記者を受け入れないよう、英外務省に申し入れたのだ。
在英日本大使館によると、申し入れの理由は、「退避勧告が出ているイラクに日本人記者が入るべきでない」というものだった。
七月十三日には、陸自が活動したムサンナ県の治安権限が英側からイラクに移譲された。権限移譲を広くPRしたい英政府は、内外の報道機関を対象に、新たな英軍同行取材の実施を検討していた。英外務省によると、日本からも数社の申込みがあった。
だが、日本政府の申し入れを受け、同省は六月二十八日、そのすべてを却下した。
同省担当者は「極めて異例な措置だが、日本政府から正式要請が来れば、配慮せざるを得ない」と、不快感をにじませた。
「我々も、一般国民にはイラクに入国しないよう求めているが、『記者は別扱い』だ。日本政府は『記者は一般人扱い』らしいが、他国では考えられない」
別の担当者は「日本の要請は疑問だ。取材妨害ではないか。報道各社で連携し、日本政府に抗議した方が良いのでは」と私に言った。
健全な報道に門戸を開け
イラクでの復興支援活動は、自衛隊が国連平和維持活動(PKO)や災害救援以外の目的を掲げ、外国の領土で活動した初のケースだ。自衛隊の活動範囲を新たに広げた節目として、小泉内閣は歴史に刻まれる。だが、そのためには、活動の詳細な検証と総括が不可欠だ。
日本の憲法の制約のもとで、自衛隊が海外で活動する、という特殊事情は、国際的にかなり認知されてきた。だが、それに便乗し、報道対応も国際基準から外れていい、ということにはならない。成果を身内で称賛するだけでなく、健全な報道に門戸を開くべきだ。
我々のサマワ取材をめぐり、特に気になったのは、「単独取材は認めない」という首相官邸の主張だ。英国の担当者をはじめ、これには関係者全員が疑問を呈した。
複数の日本政府関係者は、この取材規制について、「『.小泉首相の九月退陣前に、万一のことがイラク絡みで起きると面倒だ』と考える首相周辺の思惑が働いている」と証言する。そうした政局絡みの対応だとすれば、自衛隊にとっては不幸なことだ。
イラクのような本当の“危険地域”で自衛隊が活動する場合、報道対応がどうあるべきか、安全確保とのバランスを考えながら、日本政府と報道機関の双方がていねいに検証し、互いに話し合う必要がある。
(いいづか・けいこ)
■■引用終了■■
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イラク取材記・再びサマワへ
報道拒んだ日本政府の閉鎖性
-イラク自衛隊活動に対する詳細な検証を
読売新聞社ロンドン支局 飯塚 恵子
五月三十日から六月八日まで、英軍の保護のもと、イラク南部を取材した。サマワで復興支援活動をする陸上自衛隊について、日、英両政府と調整のうえ、三日間の取材日程を組んでいたが、当日朝になって、日本の首相官邸の指示で中止になった。“危険地域”イラクでの二年半にわたる陸目の活動は、二〇〇四年四月以降、日本人記者による直接取材がないまま、六月二十日、撤収命令が出た。今回のイラク取材を振り返り、自衛隊の海外派遣と報道のあり方について考えた。
事前調整の経緯
「6月1日 15・00 サマワ宿営地到着。16・00 全般説明。16・30 夕食。17・30 入浴。19・00 取材。 2日 6・00起床。6・30朝食。8・30 取材。12・00 昼食。 13・00取材…」(取材メモより)
六月一,二日の両日、サマワの陸自衛宮地で進むはずだった滞在日程だ。すべて幻となった。
今回の奨軍に同行してのイラク入りは、当初から、陸目の取材が主眼だった。イラク第二の都市・バスラの英軍司令部基地を拠点に動きつつ、心は出発前からサマワに向かっていた。共に行動した本紙カメラマンの中村光一記者も同じだった。
イラクへは、昨年三月にも今回同様、英政府の協力を得て、南部の多国籍軍を統括する英軍に同行した。昨年は、サマワのあるムサンナ県から撤収するオランダ軍から英軍への治安権限移譲式典が取材のハイライトだった。
式典のあったキャンプ・スミッティは、川を隔て、陸目のサマワ宿営地の対岸にある。現場で、英軍に再三、陸目の取材を中し入れたが、「日本側の事情」で果たせなかった。
私はこの時、二回目の英軍同行のチャンスを狙おうと心に決めた。その際は日本政府に事前にきちんと陸目取材を申し込もうと考えた。
チャンスはほぼ一年後に訪れた。今年四月中旬、「実現しそうだ」という連絡が英政府から来たのだ。私は、英外務、国防両省に「今回はサマワで自衛隊を取材したい。自分で日本政府と折衝するので、サマワ行きを日程に組み込んでほしい」と要請した。
すぐに防衛庁幹部に連絡を取り、以下の二点をもとに、取材を申し入れた。
〈一,イラクへの自衛隊派遣は、日本の国際貢献のあり方、派遣の意義などをめぐって国民的な論議を呼び、国会でも広範に議論された。国際的にも注目されている。その活動ぶりが、日本人記者によって二年間も直接報じられないのは、不自然である。現地取材の機会があれば、認めるべきだ。
二、今回の取材は、英軍の完全保護のもとで行われる。現時点で、民間邦人が得られる最大限の警備と安全を、メディアとして確保したうえでの取材である。〉
イラクは危険だ。日本の外務省は邦人に「退避勧告」を出している。主要メディアの日本人記者も、〇四年四月、外務省に「速やかな退避」を求められ、サマワから一斉に引き揚げた。このため、今回の取材の実現は「安全確保」が最大のポイントだ、と私は考えていた。
防衛庁内では当初、困惑の声が多かった。昨年四月に計画した、防衛記者会(記者クラブ)のサマワ合同取材が首相官邸の意向で直前に中止になったことも背景にあった。だが、私は、自分たちが英軍の完全な保護下で行動することなどを繰り返し説明し、理解を求めた。
次第に「撤収前に一度、きちんとした報道があっていい」という支持の声が防衛庁・自衛隊内に広がった。支持は明確な指示に変わり、サマワの現場に届いたのだった。英軍と陸自が調整し、五月末、取材日程が固まった。
当日朝、一転不許可の通告
「サマワでは取材を受けない。一社の単独取材は認められない、ということだ」
六月一日午前五時過ぎ。サマワに向けて、バスラを出発する直前だった。約二十分間やりとりした衛星電話は切れた。相手は東京の首相官邸の高官。私が陸自取材のためにサマワに入ることを聞きつけて、連絡してきたのだ。
取材を認めない理由は、こうだった。
「あなたがロンドン特派員として、英軍に同行してイラクを取材するのは勝手だ。だが、サマワでの陸自取材は絶対にダメだ。他社も断っており、報道各社は横並びでないといけない」
私は「よその社は、ここまで安全を確保する努力をしたのか」と尋ねた。「それは関係ない」。最後に「安全が問題ではないのか』と念押しすると、答えは「その通り」だった。
直後に、防衛庁からも、全面的に方針が変わった、という電話が入った。
この急展開に、我々三人を引率するイクバル・ハミデュディン報道官(二十九歳、英海軍大尉)は、絶句した。
報道官は、我々二人の取材に当初から非常に協力的だった。「自衛隊は(サマワで)頑張っているのに、日本のメディアは滅多に来ないからね」と話した。
「フランスやドイツなど、政府がイラクに兵を出していない国のメディアも、英軍に警備を頼る形でイラクを取材している。日本も似たようなものだろう」
実際、今回の取材グループは、我々二人に加え、フランス国営テレビのマガリ・フォレスティエ記者とカメラマンのサラ・アクラピ記者、それにオランダ有力紙「NRCハンデルスプラット」のフローリス・uストラーテン記者の計五人だった。両国からは現在、イラクへの部隊派遣はない。
陸自取材について報道官は、この三人のプログラムとは別に、日程を組んでくれた。
サマワまでは、バスラから北西に片道約三百五十キロ。我々二人の警護のために、総勢十六人の英兵が同行し、装甲車三台、防弾仕様四駆車一台でのコンボイが組まれた。昨年三月のサマワ取材では、記者三人に対し、警護兵は四人だった。大幅な警備強化は、イラク南部の治安悪化を反映していた。
兵士らは、気温がセ氏四九度に達する中、装甲車の天井からヘルメットの頭を出し、四六時中銃を構えて四方を警戒し続けた。休憩を入れて片道計七時間。途中、装甲車のラジエーターの冷却水が沸騰し、修理する一幕もあった。
警備に関しては、防衛庁との事前調整で最後に 一つ、注文がついた。「英軍の保護下での取材」のため、陸自宿営地での我々の宿泊も「英兵の同伴が条件」とのことだった。そこまで英軍が便宜を図ってくれるか不安だったが、報道官は「わかった。自衛隊の取材が難しいことは聞いている」と上司の許可を取ってくれた。
このようにして、我々二人のサマワ行きは、警備計画がすでに動き出していたこともあり、事態の急変を受けても決行されることになった。サマワでは、陸自衛僻地の目と鼻の先にあるキャンプ・スミッティに宿泊地が変更された。
国際基準から外れた対応
六月二日夜、バスラの英軍基地に戻ると、我々の自衛隊取材が「失敗」した話は、各所に広まっていた。
基地内には、下士官向けの半ば野外のパブと、将校専用のラウンジパブがある。ロンドンのパブのビールは生ぬるいが、ここのはどれもキンキンに冷えている。一人一日五百ミリリットルのカン二本までの制限があるが、これが日々の楽しみ、と話す兵士は多かった。
夜、その半野外パブに行くと、居合わせた多国籍軍の各幹部や各国の記者に質問攻めにあった。
英陸軍高官は「部隊は普通、本国に活動の様子を報道されたいものだ。それが士気高揚につながり、国益にも資する。理解できない」と憤った。この高官は,日本の憲法と自衛隊の海外派遣の微妙な関係なども頭に入っていた。
イタリア軍の大尉は「日本軍は、何か報道されるとまずいことでもしているのか」と半ば冗談で我々を慰めた。
バグダッドから来ていた米星条旗新聞の記者は「単独取材のどこがいけないのか。危険地帯では、すべての新聞、テレビがそろう取材など、そもそも実現しないだろう」と話した。
オランダのストラーテン記者は「この事件は記事にした方がいい。国民も怒るはずだ」と私に勧めた。ハミデュディン報道官は「自衛隊はナゾだらけだ」とうなずいた。
後日談だが、ストラーテン記者からは、六月二十日に陸自に撤収命令が出た際、「自衛隊の特異性がよくわかるので、見聞きしたことをそのまま自分の新聞に書く」と連絡があった。
ブレア英政権は、イラク駐留英軍の活動PRに熱心で、外国人記者にも積極的に門戸を開く。イラク戦争後の約三年間で、延べ百五十人の外国人記者を現地に受け入れた。
我々がバスラ入りした五月三十一日、イラクのマリキ首相が現地に非常事態宣言を発令し、英メディアからも英軍同行への申込みが殺到した。報道官らは「危険のため、記者の警備が大がかりになった。円滑な取材日程を組むのも難しい」とこぼしていた。だが、英首相官邸は「今後もなるべく報道陣を受け入れるように」と指示を出しているという。
同行取材には限界もある。今回の取材は、英外務、国防両省の合同プログラムで、警護や旅費、食費などはすべて英政府負担だ。その代わり、取材相手や日程は、こちら側の要望を募りつつ、英軍が最終的に決める。
地元のイラク人に、軍が雇うアラビア語通訳を通して話を聞く時は、報道官がいつも脇にいた。イラク人は、英軍の批判めいた内容はほとんど話さなかった。このため、英軍に対する地元感情が実際はどうなのか、つかみかねた。
「HPで十分」という政府認識との差
制約もある同行取材だが、イラクの現場を体感する貴重な機会であることに変わりはない。
サマワでは、キャンプ・ スミッティの英軍広報が声をかけ、集まってきた通訳や英語教師ら地元住民約十人に話を聞いた。一斉に噴出したのは、陸自への不満だった。
「停電続きで、昨晩も一晩中、暑くて眠れなかった。冷蔵庫も使えない」「学校や橋も大事だが、電力はもっと大事だ。県外の親類から『ソニーやトヨタの日本が来て良かったね』 と言われるが、何も変わらない」「自衛隊はもっとサマワの町に自分で来て、地元の要望を直接開いてほしい」-
意外だった。陸自の復興支援活動は、イラク政府や地元住民のみならず、米英両政府や諸外国から高い評価を受けたと聞いている。実際、水の供給や医療・教育指導、道路や橋の補修など,サマワの生活基盤の改善に貢献したのは間違いないのだろう。
それだけに、厳しい自衛隊批判が続いたことに面食らった。英側が意図的に一握りの不満分子を集めたのでは、と一瞬疑ったほどだ。が、英軍広報も思わぬ展開に戸惑っていた。
前述の首相官邸高官は「自衛隊の活動については、ホームページなどで情報提供している」と主張した。だが、メディアが部隊の現場取材を怠り、チェック機能を果たせなくなれば、現代の「大本営発表」になってしまう。
サマワ住民の批判は、妥当なのか。熱気が体中にまとわりつく、日本ではあり得ない暑さを体験すれば、「電力」の検証にも手応えが生まれるだろう。自衛隊の次の海外派遣への課題も、具体的に指摘できるのではないか。
六月二十日の撤収命令後、額賀福志郎防衛長官が行った記者会見では、数々の活動実績の中で「電力」は触れられていなかった。
撤収命令が出てすぐ、新たな事態が起きた。
日本政府が六月二十七日、イラクへの英軍同行取材に日本の報道機関の記者を受け入れないよう、英外務省に申し入れたのだ。
在英日本大使館によると、申し入れの理由は、「退避勧告が出ているイラクに日本人記者が入るべきでない」というものだった。
七月十三日には、陸自が活動したムサンナ県の治安権限が英側からイラクに移譲された。権限移譲を広くPRしたい英政府は、内外の報道機関を対象に、新たな英軍同行取材の実施を検討していた。英外務省によると、日本からも数社の申込みがあった。
だが、日本政府の申し入れを受け、同省は六月二十八日、そのすべてを却下した。
同省担当者は「極めて異例な措置だが、日本政府から正式要請が来れば、配慮せざるを得ない」と、不快感をにじませた。
「我々も、一般国民にはイラクに入国しないよう求めているが、『記者は別扱い』だ。日本政府は『記者は一般人扱い』らしいが、他国では考えられない」
別の担当者は「日本の要請は疑問だ。取材妨害ではないか。報道各社で連携し、日本政府に抗議した方が良いのでは」と私に言った。
健全な報道に門戸を開け
イラクでの復興支援活動は、自衛隊が国連平和維持活動(PKO)や災害救援以外の目的を掲げ、外国の領土で活動した初のケースだ。自衛隊の活動範囲を新たに広げた節目として、小泉内閣は歴史に刻まれる。だが、そのためには、活動の詳細な検証と総括が不可欠だ。
日本の憲法の制約のもとで、自衛隊が海外で活動する、という特殊事情は、国際的にかなり認知されてきた。だが、それに便乗し、報道対応も国際基準から外れていい、ということにはならない。成果を身内で称賛するだけでなく、健全な報道に門戸を開くべきだ。
我々のサマワ取材をめぐり、特に気になったのは、「単独取材は認めない」という首相官邸の主張だ。英国の担当者をはじめ、これには関係者全員が疑問を呈した。
複数の日本政府関係者は、この取材規制について、「『.小泉首相の九月退陣前に、万一のことがイラク絡みで起きると面倒だ』と考える首相周辺の思惑が働いている」と証言する。そうした政局絡みの対応だとすれば、自衛隊にとっては不幸なことだ。
イラクのような本当の“危険地域”で自衛隊が活動する場合、報道対応がどうあるべきか、安全確保とのバランスを考えながら、日本政府と報道機関の双方がていねいに検証し、互いに話し合う必要がある。
(いいづか・けいこ)
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