一昨日は、コメントありがとうございました。
お一人ずつお返事していると、長くなると思いましたので、
こちらに皆様へのご返信もかねて、書かせていただきたいと思います。
本来は、昨日記事アップする予定だったのですが、
あの記事を書いて一夜あけたら、朝のニュースで「自殺予告」の手紙…。
おまけに、夜記事を書き始めたら、なにやらテレビで
「イマドキの学校」について始まってしまった…。
なんだか気が散漫になったり、考えることが増えちゃったり、
結局、まとまりがつかなくなってしまいました。
今もまだ、何も結論の出ない、終わりの見えない思いでいるのですが、
とりあえず、書き始めて見ます。
おとといは、いろいろなコメントをいただきました。
私は幸いなことに、本当にありがたいことに、年代的なこともあるのでしょうが
知っているのは「いじめ」ではなく「いじめっ子」だけ。
帰り道の通りで、両手を広げて通せんぼしたり、
お菓子を取り上げられたり、そんなことしかありませんでした。
その子がいじめるのは、自分の「家来」以外全部だったし、
先生が見つければ「こらーっ」と彼は叱られました。
シアワセな時代?いえ、当たり前の時代だったのだと思います。
自分が「子供」という時代を卒業して、兄弟もいませんから、
自分の世代のことしか見えなくて、仕事、遊び、レンアイ、結婚…
そんな「オトナ」の世界だけしかわかりませんでした。
子供を持っても、一昨日も書きましたが「養護学校」のことしかわかりません。
へんな話ですが、同じ世間で暮らしているのに、
今の学校については「今浦島」状態です。
そんな状態で、記事を書き始めたら、
前述の「今の教育現場」についての番組をやっていたわけです。
その中で、学級崩壊の兆しのあるクラス、として、ある小学校のクラスに
カメラとりつけて映し出したわけですが、朝一番の「挨拶」のときに
「起立」と号令がかかっているのに立ち上がらない子が二人いる…。
画面がボカしてありましたから、なにをしているのかはわかりませんが、
何か文具をさわってごちゃごちゃモタモタやっている・・・。
二人の「起立しない子」のために、他の子供たちも先生も待っていました。
ナレーションでは「自主性を促すために、あえて何もいわず待つ」でした。
では、ずっと立って待っている子のこと、どう考えるのでしょう。
「起立」という声がかかったら「立つ」、
これは命令とか、押し付けとか、ワクにはめるとかではなく、
集団生活のルールでしょう。自分たちが立たないために、
他の生徒がみんな立って待っている、それは「迷惑をかけていることだ」と
それを教えるほうが先ではないかと思うのです。
そちらの方が本当の「自主性」ではないのでしょうか。
そのあとプリントを配る場面がありました。
一人の子がそれを紙飛行機にして飛ばしました。
まねをして何人かの子がやりました。
先生が今まさに飛ばそうとしている子にきがついて取り上げようとしましたが、
スルリとかわされて後ろ手に隠されてしまいました。
先生が「出しなさい」と言ったときの彼の返事は「ヤダ」「ヤダヤダ」でした。
私はもう信じられませんでしたよ。もちろん、たった一つの番組の、
たった一校のひとつのクラスのリポートです。日本中の子供がみんなそう、
学校全部がそう、とは思いません。しかし、そこにいた現役の教師たちが、
こんなのは特別だ…とは言いませんでした。大いにアリ、と肯定したのです。
崩壊したらもっとひどい…とも言いました。なんでこんなことに…。
社会にでたって朝礼や挨拶はあります。
社会の中で生きるということは「集団」の中で生きるということであり、
集団の中には、当然「礼儀・けじめ」としてのルールがあるということです。
自分の行動が、誰にどんな影響を与えているのか、
それを判断するのは、人として当然のことだと思うのですが、
あんなふうに、人を待たせてなんとも思わなかったり、
教室で「授業」のために配られたものを、紙飛行機にしてとばしてしまう。
とがめられても「ヤダ」とグズグズと渡さない…、
そのために授業は中断するわけです。そういう状況で育った子供は
社会へでたら、毎日不満だらけになるんでしょうね。
だから学校で教えてる?あれで教えているのでしょうか。
それになによりも「学校というところは集団生活であり、
そこにはルールがあって、それを守ることが、他人を認め、自分も認めてもらう、
つまりは自分の居場所をちゃんと確保していくすべなのだ」
ということは、本来就学前に「親が教えるべきこと」だと、私は思うのです。
ただねぇ、これを言うとまず「ふるい」、もうひとつ
「あなたはふつーの子そだててないから」といわれてしまうのです。
人として世間様の中で生きていくには、やること守ることは
何十年経ったって、おんなじだとおもうんですがねぇ。
さて、最初からわき道にそれてしまいました。
昨日のお話に戻りましょう。まぁつながりが全くないわけではありませんが。
「親に言わない」ということについては、正直なところ
「なるほど、そういう理由があったのか」と思いましたが、
「ああそうだったのか」と明快に理解することはできませんでした。
すごくカンタンなことなのですが、要するにやっぱり「言葉」というものです。
言葉はなんのためにあるのか、それを文字にかえたとしても、です。
私は自分の子供が重度の障害があるとわかったとき、
自分を五体満足に産んでくれた母親、
その運命を授けてくれた神様に、ほんっとに感謝しました。
単純に「自分で歩けるって、ありがたいことなんだ」と思ったのです。
五体満足、ということ、それは「とりあえずちゃんと生きていかれる」
という最低限の「宝」です。それに「言葉」が加われば、
人間、少々のことはなんとか乗越えていかれる…
と言うのがやっぱり私の思いです。
また息子の話になりますが、息子は言葉で意思表示をすることができません。
6年前になりますか、息子が悪性のカゼで高い熱を出しました。
できるだけ入院させたくなくて、家で凌いでいましたが、
高熱がでると熟睡できません。トロッと眠っては起きてしまう息子を
少しでも安心させてあげたくて、抱きかかえて眠らせようとしました。
ところがしばらくたつと、腕の中から起き上がろうとします。
眠れないのかと思いまた横抱きにする、また起き上がる…それの繰り返し。
ところがそのうち眼に涙をいっぱいためて「うぅ~うぅ~」とうなり始めました。
息子は小学校に入ってから、どんなに熱があっても注射・点滴をしても、
ぜったい泣いたことはありませんでした。こりゃおかしいと思い、
下におろして横にすると、海老のように丸くなります。
すぐにおなかに耳をつけてみました。おなかって、正常なときは
「グルグル」とか「ブツブツ」とか「キュルキュル」とか、
いろんな音がします。それが全く音がしません。少し膨らみかけています。
即、救急車を呼びました。カゼ菌がおなかに入って下痢をする、というのは
それまでにも何回もあったのですが、菌のために腸がうごかなくなる、
というのは初めてでした。
医師に「腸が全く動いてません、すぐガスを抜いて抗生剤を点滴しましょう」
といわれました。処置がおわって出てきた息子は、
あっというまに眠りに落ちました。
言葉を話せたら、単語でもいい、おなか、とかぽんぽんとか、
息子がそう言えたら、つらい姿勢をわざわざ2時間もとらせなかったのに、
抱きあげることがかえって苦しい思いをさせることになってしまった、
ふがいないやら辛いやら…「ごめんね、いたかったね」といいながら、
すでにペタンコになっているおなかをさすりながら、泣きたい思いでした。
この22年、言葉の意思疎通なしで暮らしてきました。
おかげさまで、眼の動き・表情・体の動き・声の調子、そういうもので
息子の様子はかなりわかるようになりました。
それでも、ときどき「言葉が話せたらな」と思うのです。
だるい、おなかイタイ、寒い、暑い…それだけでもいいから、と。
だから、言葉を使えるなら、それを駆使して思いをつづるだけの知能があるのなら
心に溜め込まないで言うべきだ、書くべきだ、と思うのです。
言葉を使えるということは、最大の武器だと、やっぱりそう思うのです。
間に合ううちに!
大人になるにしたがって、自分の住む世界は少しずつ広がっていきます。
大きくなってみれば、学校なんてほんとにほんとに小さな世界なんです。
その小さな世界におしつぶされてしまうなんて、
ほんとにもったいないことです。
親に心配かけたくない、先生に言ってもわからない、言葉にだしたら負け、
そんな思いもあるかもしれませんけれど、それならせめて、
自分のことを「だめな人間」とか「弱い人間」なんて思わないで欲しいです。
理不尽ないじめを受けているというのなら、それはあなたのせいじゃない。
いじめをする人が、情けない人間なんです。
いじめではよく「臭い」「汚い」と言う言葉を使うそうですが、
その言葉で人をいじめている人は、その言葉を一度口にするたびに、
自分の心がどんどん腐ってゆくことにきづかない、
腐った心は鼻がひんまがるほどくさいでしょうね。
汗やヨゴレのにおいはおふろに入れば消えるけど、
心の腐った匂いは、どうやったらきえるのでしょう。
そんなつもりはなかった、それほど悩んでいると思わなかった、
ちょっとしたからかいのつもりだった、そんな言葉もよく聞きます。
ほんとですか?何人もに囲まれて「くさい」とか「うざい」といわれたら
なんだちょっとからかってるんだ…と思えますか?
わざわざ自分の心を腐らせていることも、自分を大切にしないことです。
言葉はとても大事なものです。使い方を間違えないでほしいです。
私の子供時代は、今より子供たち同士、家族、近所、学校…が、
もう少し「むき出し」でお互い摩擦しあっていたように思います。
もちろん、いいことばかりではありません。
でも、とりあえず子供同士では、年上年下、親分格、おねえちゃん格がいて、
面倒見てもらったり、無理やり言うこと聞かされたり…。
そんな中で、子供同士の集団のルールみたいなものは、自然と身につきました。
近所にはうるさいおじさんおばさんがいて、イタズラっこや、
たとえば遊びに夢中になりすぎて人に迷惑かけたときなどは、
遠慮なく雷を落とされました。親は親で「世間様」と言う言葉をよく使いました。
「世間様に迷惑をかけないように」「世間様のお役に立つように」、
今耳にすれば、カビのはえていそうなダサイ言葉に聞こえるのかもしれませんが、
これは単純に言ってしまえば「挨拶、そしてありがとうとごめんなさい」が
言うべきときにいえる子供に育てること、なんだと思います。
答えの出ないお話です。
いくら綴っても、散漫になるばかり。
申し訳ないことですが、このへんで…と思います。
本当にいろいろなご意見・コメントありがとうございました。
明日はまた、私の心の栄養「古い着物や帯」に戻りたいと思います。
お一人ずつお返事していると、長くなると思いましたので、
こちらに皆様へのご返信もかねて、書かせていただきたいと思います。
本来は、昨日記事アップする予定だったのですが、
あの記事を書いて一夜あけたら、朝のニュースで「自殺予告」の手紙…。
おまけに、夜記事を書き始めたら、なにやらテレビで
「イマドキの学校」について始まってしまった…。
なんだか気が散漫になったり、考えることが増えちゃったり、
結局、まとまりがつかなくなってしまいました。
今もまだ、何も結論の出ない、終わりの見えない思いでいるのですが、
とりあえず、書き始めて見ます。
おとといは、いろいろなコメントをいただきました。
私は幸いなことに、本当にありがたいことに、年代的なこともあるのでしょうが
知っているのは「いじめ」ではなく「いじめっ子」だけ。
帰り道の通りで、両手を広げて通せんぼしたり、
お菓子を取り上げられたり、そんなことしかありませんでした。
その子がいじめるのは、自分の「家来」以外全部だったし、
先生が見つければ「こらーっ」と彼は叱られました。
シアワセな時代?いえ、当たり前の時代だったのだと思います。
自分が「子供」という時代を卒業して、兄弟もいませんから、
自分の世代のことしか見えなくて、仕事、遊び、レンアイ、結婚…
そんな「オトナ」の世界だけしかわかりませんでした。
子供を持っても、一昨日も書きましたが「養護学校」のことしかわかりません。
へんな話ですが、同じ世間で暮らしているのに、
今の学校については「今浦島」状態です。
そんな状態で、記事を書き始めたら、
前述の「今の教育現場」についての番組をやっていたわけです。
その中で、学級崩壊の兆しのあるクラス、として、ある小学校のクラスに
カメラとりつけて映し出したわけですが、朝一番の「挨拶」のときに
「起立」と号令がかかっているのに立ち上がらない子が二人いる…。
画面がボカしてありましたから、なにをしているのかはわかりませんが、
何か文具をさわってごちゃごちゃモタモタやっている・・・。
二人の「起立しない子」のために、他の子供たちも先生も待っていました。
ナレーションでは「自主性を促すために、あえて何もいわず待つ」でした。
では、ずっと立って待っている子のこと、どう考えるのでしょう。
「起立」という声がかかったら「立つ」、
これは命令とか、押し付けとか、ワクにはめるとかではなく、
集団生活のルールでしょう。自分たちが立たないために、
他の生徒がみんな立って待っている、それは「迷惑をかけていることだ」と
それを教えるほうが先ではないかと思うのです。
そちらの方が本当の「自主性」ではないのでしょうか。
そのあとプリントを配る場面がありました。
一人の子がそれを紙飛行機にして飛ばしました。
まねをして何人かの子がやりました。
先生が今まさに飛ばそうとしている子にきがついて取り上げようとしましたが、
スルリとかわされて後ろ手に隠されてしまいました。
先生が「出しなさい」と言ったときの彼の返事は「ヤダ」「ヤダヤダ」でした。
私はもう信じられませんでしたよ。もちろん、たった一つの番組の、
たった一校のひとつのクラスのリポートです。日本中の子供がみんなそう、
学校全部がそう、とは思いません。しかし、そこにいた現役の教師たちが、
こんなのは特別だ…とは言いませんでした。大いにアリ、と肯定したのです。
崩壊したらもっとひどい…とも言いました。なんでこんなことに…。
社会にでたって朝礼や挨拶はあります。
社会の中で生きるということは「集団」の中で生きるということであり、
集団の中には、当然「礼儀・けじめ」としてのルールがあるということです。
自分の行動が、誰にどんな影響を与えているのか、
それを判断するのは、人として当然のことだと思うのですが、
あんなふうに、人を待たせてなんとも思わなかったり、
教室で「授業」のために配られたものを、紙飛行機にしてとばしてしまう。
とがめられても「ヤダ」とグズグズと渡さない…、
そのために授業は中断するわけです。そういう状況で育った子供は
社会へでたら、毎日不満だらけになるんでしょうね。
だから学校で教えてる?あれで教えているのでしょうか。
それになによりも「学校というところは集団生活であり、
そこにはルールがあって、それを守ることが、他人を認め、自分も認めてもらう、
つまりは自分の居場所をちゃんと確保していくすべなのだ」
ということは、本来就学前に「親が教えるべきこと」だと、私は思うのです。
ただねぇ、これを言うとまず「ふるい」、もうひとつ
「あなたはふつーの子そだててないから」といわれてしまうのです。
人として世間様の中で生きていくには、やること守ることは
何十年経ったって、おんなじだとおもうんですがねぇ。
さて、最初からわき道にそれてしまいました。
昨日のお話に戻りましょう。まぁつながりが全くないわけではありませんが。
「親に言わない」ということについては、正直なところ
「なるほど、そういう理由があったのか」と思いましたが、
「ああそうだったのか」と明快に理解することはできませんでした。
すごくカンタンなことなのですが、要するにやっぱり「言葉」というものです。
言葉はなんのためにあるのか、それを文字にかえたとしても、です。
私は自分の子供が重度の障害があるとわかったとき、
自分を五体満足に産んでくれた母親、
その運命を授けてくれた神様に、ほんっとに感謝しました。
単純に「自分で歩けるって、ありがたいことなんだ」と思ったのです。
五体満足、ということ、それは「とりあえずちゃんと生きていかれる」
という最低限の「宝」です。それに「言葉」が加われば、
人間、少々のことはなんとか乗越えていかれる…
と言うのがやっぱり私の思いです。
また息子の話になりますが、息子は言葉で意思表示をすることができません。
6年前になりますか、息子が悪性のカゼで高い熱を出しました。
できるだけ入院させたくなくて、家で凌いでいましたが、
高熱がでると熟睡できません。トロッと眠っては起きてしまう息子を
少しでも安心させてあげたくて、抱きかかえて眠らせようとしました。
ところがしばらくたつと、腕の中から起き上がろうとします。
眠れないのかと思いまた横抱きにする、また起き上がる…それの繰り返し。
ところがそのうち眼に涙をいっぱいためて「うぅ~うぅ~」とうなり始めました。
息子は小学校に入ってから、どんなに熱があっても注射・点滴をしても、
ぜったい泣いたことはありませんでした。こりゃおかしいと思い、
下におろして横にすると、海老のように丸くなります。
すぐにおなかに耳をつけてみました。おなかって、正常なときは
「グルグル」とか「ブツブツ」とか「キュルキュル」とか、
いろんな音がします。それが全く音がしません。少し膨らみかけています。
即、救急車を呼びました。カゼ菌がおなかに入って下痢をする、というのは
それまでにも何回もあったのですが、菌のために腸がうごかなくなる、
というのは初めてでした。
医師に「腸が全く動いてません、すぐガスを抜いて抗生剤を点滴しましょう」
といわれました。処置がおわって出てきた息子は、
あっというまに眠りに落ちました。
言葉を話せたら、単語でもいい、おなか、とかぽんぽんとか、
息子がそう言えたら、つらい姿勢をわざわざ2時間もとらせなかったのに、
抱きあげることがかえって苦しい思いをさせることになってしまった、
ふがいないやら辛いやら…「ごめんね、いたかったね」といいながら、
すでにペタンコになっているおなかをさすりながら、泣きたい思いでした。
この22年、言葉の意思疎通なしで暮らしてきました。
おかげさまで、眼の動き・表情・体の動き・声の調子、そういうもので
息子の様子はかなりわかるようになりました。
それでも、ときどき「言葉が話せたらな」と思うのです。
だるい、おなかイタイ、寒い、暑い…それだけでもいいから、と。
だから、言葉を使えるなら、それを駆使して思いをつづるだけの知能があるのなら
心に溜め込まないで言うべきだ、書くべきだ、と思うのです。
言葉を使えるということは、最大の武器だと、やっぱりそう思うのです。
間に合ううちに!
大人になるにしたがって、自分の住む世界は少しずつ広がっていきます。
大きくなってみれば、学校なんてほんとにほんとに小さな世界なんです。
その小さな世界におしつぶされてしまうなんて、
ほんとにもったいないことです。
親に心配かけたくない、先生に言ってもわからない、言葉にだしたら負け、
そんな思いもあるかもしれませんけれど、それならせめて、
自分のことを「だめな人間」とか「弱い人間」なんて思わないで欲しいです。
理不尽ないじめを受けているというのなら、それはあなたのせいじゃない。
いじめをする人が、情けない人間なんです。
いじめではよく「臭い」「汚い」と言う言葉を使うそうですが、
その言葉で人をいじめている人は、その言葉を一度口にするたびに、
自分の心がどんどん腐ってゆくことにきづかない、
腐った心は鼻がひんまがるほどくさいでしょうね。
汗やヨゴレのにおいはおふろに入れば消えるけど、
心の腐った匂いは、どうやったらきえるのでしょう。
そんなつもりはなかった、それほど悩んでいると思わなかった、
ちょっとしたからかいのつもりだった、そんな言葉もよく聞きます。
ほんとですか?何人もに囲まれて「くさい」とか「うざい」といわれたら
なんだちょっとからかってるんだ…と思えますか?
わざわざ自分の心を腐らせていることも、自分を大切にしないことです。
言葉はとても大事なものです。使い方を間違えないでほしいです。
私の子供時代は、今より子供たち同士、家族、近所、学校…が、
もう少し「むき出し」でお互い摩擦しあっていたように思います。
もちろん、いいことばかりではありません。
でも、とりあえず子供同士では、年上年下、親分格、おねえちゃん格がいて、
面倒見てもらったり、無理やり言うこと聞かされたり…。
そんな中で、子供同士の集団のルールみたいなものは、自然と身につきました。
近所にはうるさいおじさんおばさんがいて、イタズラっこや、
たとえば遊びに夢中になりすぎて人に迷惑かけたときなどは、
遠慮なく雷を落とされました。親は親で「世間様」と言う言葉をよく使いました。
「世間様に迷惑をかけないように」「世間様のお役に立つように」、
今耳にすれば、カビのはえていそうなダサイ言葉に聞こえるのかもしれませんが、
これは単純に言ってしまえば「挨拶、そしてありがとうとごめんなさい」が
言うべきときにいえる子供に育てること、なんだと思います。
答えの出ないお話です。
いくら綴っても、散漫になるばかり。
申し訳ないことですが、このへんで…と思います。
本当にいろいろなご意見・コメントありがとうございました。
明日はまた、私の心の栄養「古い着物や帯」に戻りたいと思います。
当たり前のことを教えてもらえないということは、
大人になってから苦労するんです。
世間はそんなに甘くありませんから。
かわいそうですよね。
私は、普通の子そだてなかったけど、
「子育て」はしてきた…という自負はあります。
子育ての中で教えたこともおそわったことも、
人とは違うけれど、それでも今、十分シアワセです。
お互い、がんばっていきましょう!
テレパシーがほんとにあったら良いのにね。
私も似たような経験をしたことがあり、ちょっと涙が出ました。分からなかった自分自身が悔しかったでしょうね、とんぼさん。
毎年新入社員が来るとね、ほんとに消耗するんです。
いつから会社は躾の場所になったんだって。
家の親はとても厳しく、父からはよく叩かれましたけれど、今になって「ちゃんとした社会人になれるように」育ててくれたことに感謝しています。
諦めないでアクションし続けることが大切なのでしょうね。エネルギーが要りますけれどねえ。はああ。
誰かだけがおかしいのではなく、
親も学校も、なんだかみんなヘンですね。
昔は…というと、すぐ何か言われそうですが、
ほんとに昔の方が当たり前だったように思います。
麻の葉様
「ぽい」…おもしろいですねぇ。
でも、ほんとになんか寂しいです。
一時期「亭主が言うのはメシ・フロ・ネル、だけ」
といわれましたが、問いかけなきゃいわない、
返事は「ぽい」じゃ、なんだかなー、ですね。
百福万福様
まさに、今日息子の施設で、ある種の職場のいじめ
目の当たりにしてきたんですよ。
それはまぁ、役所がウチの職員に…だったのですが
人の勤労意欲を殺いだり、能力をつぶしたり、
やっぱり壊れていってるような気がします。
大人のいじめも陰惨。友達の会社では、できない奴もいじめられ、できる奴の足はひっぱっていじめ、加えて上司のいじめが平気で行われているそうです。ぞっとしました。辞めろといったら、辞められないって。大人も行き所がない。
考えてみれば、人を攻撃する欲望というのは、いつも存在してました。その、人間の嫌な部分を増長するような要因が、今の世の中には増えているのでしょうか?
もちろん言葉が全てではないし、言葉を交わさなくても意志の疎通もできます。でも、折角言葉を使えるなら、使いましょうよ!
聞いた話ですが、お母さんが息子に「今日晩御飯いる?」とメールしたら、返信は「ぽい」。その心は「晩御飯いるっぽい」だそう。その時は大笑いしましたが、家族の会話がそんな風に退化してきている、と思うと、笑い事ではすまされませんよね。そんな積み重ねが、家族に本音を言えない、家庭の中で学ぶべきことを学べなくしているのかもしれません。
我が家も他人事ではありませんわ。ちょっと反省。
精一杯頑張って生きている人、明日をも知れない命でも必死で戦っている人も多い世の中で人の命を奪うような言葉の暴力は絶対に無くしてほしいと願います。
よく母は、自分がされて嫌な事は絶対に人様にしてはならないと言いました。そして天に向かって吐いたつばは必ず自分の顔に掛かると・・・
いじめている側の人にこのブログを見て一日も早く
悔い改め更生してほしいと思います。