写真は、三本全部開いたヒヤシンス、ほわんといい香りが漂います。
もうおひなまつり、ですね。今年は何をボケていたのか「ひなあられ」を買ってない!
節分のお豆の残りじゃ…まずかんべなぁぁぁ。サ○ウの切餅をひとつ、細かく切って揚げもちにして…。
お雛さんもかわいそうに、色もついていない「かき餅」かざられるなんてぇぇぇ。
で、3月に入りますと「年度末」ってことで、道路工事が増えたり、役所がこんだり…なんですよね。
ところで、年度末が3月になったのはイギリスに倣ったから…なんですが、ご存知でしたか?
なんで年度末なんてことがあるのか、これは当然「税金」ということにかかわってくるわけですが、
本当は、お金の支払いは大晦日、ってのが一番わかりやすいですよね。
江戸時代の「掛売り」や「借金」の支払いは「盆と暮れ」、ですから
一年のシメの大晦日は「掛取り」にとってはその年のほんとの最終日。町には大福帳を持った商人が、
「米の払い」「味噌しょうゆの払い」「炭の払い」「酒の払い」をしておくれぇぇぇぇと走り回りました。
このころは、年度末は12月だったわけです。それがいつから変わったか?
これは言わずもがなの明治です。明治政府は、それまで使っていた「太陽太陰暦」、
つまりお月様の動きを基本とした暦ですね。これは月の満ち欠けを基本としますので、
地球が太陽の周りを一回りする1年365日とは11日違ってしまうわけです。
日本では、これを調整するのに各月の日数をあれこれ工夫して、季節とのズレを消していました。
またそれでもでてくる差を消すのに、数年に一度「閏月(うるうづき)」をはさむので、
その年は1年が13ヶ月になりました。ややこしいですね。今と違う月日の進み方だと、
同じ「今日は○月○日」といっても、去年とは違ったりしているわけで、それを補うのに二十四節季がありました。
何しろ日本は農業国ですから、稲作の作業に狂いが出ては困るからです。
それで太陽の動きも見ることもいれたので「太陽太陰暦」です。
暦は毎年細かく変化するので、江戸には「暦屋」があり、毎年お上の定めた「今年の暦」を売り出しました。
この「暦を印刷して売り出す」ためには、お上のお許しが要りましたから、幕府に使用料として高いお金を払って、
天文方の作った「来年の暦原本」を手に入れたのです。
明治になって外国との交易も始まり「こうなると、よそさんちが使ってるグレゴリー…たら言うほうが、
ええんでないかい?」という話もでましたが、なにしろ太陰暦が長年暮らしそのものに根付いてますから
どうしたもんだべなぁ…とやっていたわけです。しかしここで問題がおきました。
実は明治政府は今で言うなら「チョー貧乏」だったんですね。江戸幕府から引き継いだ「武士への報酬」、
これは今度は「お給料」という形で毎月払うことになりました。
何で困るのか…江戸時代の武士の給料は「お米」、これは二種類あって「知行米(ちぎょうまい)」と「切米(きりまい)」
知行というのはいわば「赴任先」、「○○藩は何万石」という言い方をしますが、それはそれだけのお米がとれるところ、
で、このお米を現金化して、給料として使っていたわけです。おもに身分の高い武士。
身分の低いものは「切米」、これは現物支給。よく時代劇で、同心は三十俵二人扶持(ににんぶち)なんて言います。
あの30俵がお給料、二人扶持というのは、いまでいうとこの「特別手当」、あるいは「職業手当」。
つまり、同心ともなれば、町の治安をまもるために助手も必要であろう、これを使いなさい、という
プラスアルファのお米。岡引へのお手当てなんぞはこれから出したわけです。
(ちなみに岡引というのは決まった職業ではなく、あくまで同心の私設秘書です)
どちらのお米にしても、そのままではご飯がたべられるだけで、何も買えません。
だから武士たちは、そのお米をお金に変換していたわけです。
貧しい武士は、お米もできるだけ売って生活費にあて、実際には麦飯を食べたりしていました。
さて、これはいわば「年棒制」です。ところが、新政府になると「月給制」になりました。
毎月ちゃんと現金で払わなければならない。
おりしもその年(明治6年)は閏の年で一年は13ヶ月ありましたそうな。
おんなじ1年なのに、1か月分、余分にはらわなければならない…そこでその年の12月のはじめに、
「今日から毎年、グレゴリカレンダーにすっからね」とやったわけです。
おかげで13月はたった二日でおわっちゃった。二日分で月給払えってのかい…と居直ったわけ??
さて、そんなわけで、日本は「給料未払いにする」という隠れた理由も含めて、
イギリスに倣ったわけですが、年度末のお話はどうなったの?…。
今度は「イギリスの事情」になります。イギリスがグレゴリオ暦を使い始めたのは、1700年代ですが、
それまでは春分年初でした。「春分年初」というのは、いろいろな国で過去に使われていた考え方で、
春という命の芽吹きのこの時期に必ず来る「春分」、一日の昼と夜の長さが同じというこの日を
「その年の始まり」とした考え方です。つまり春分の日がお正月。冬至年初という方式の国もあります。
元々、単純に考えれば「お金の始まりと終わり」は、江戸時代のように年の始まりと終わりに合わせたほうが、
わかりやすいに決まっています。イギリスもそれでやっていました。
ところが、お正月を1月1日ってことにするぞー、と決めたら、その年は、年末が3ヶ月早くなっちゃうわけです。
ちょっと待ってよ、支払いできないよ、税金納められないよ、になる…。
そこで、カレンダーはかわるけど、お支払いは元々のお正月の3月春分の日まででいいよ、
ついでだから3月いっぱいでいいや…。これが3月の年度切り替え、つまり「お金勘定の上での年末年始」の始まり。
だいたい「税金」の徴収と利用は、各家庭の家計と同じです。来月のお給料を想定して、予算を立てて、
割り振りを決めて実行する…。日本の場合は、元々お米が大事な金蔵の中身でしたから、収穫は秋、
それを現金化して、あれこれ収支を計算して…と、収支決算し、翌年の予算を立てるには、
12月で締めるより、イギリスと同じく3月シメのほうがゆとりを持って検討できたんですね。
もし、日本のお米というものが6月とか7月に収穫されるものであったら、カレンダーはグレゴリーにかわっても、
年度は江戸時代どおり、12月31日シメだったかもしれませんね。
余談ですが、日本が暦を新暦に変えたとき、暦屋にはそうなる予定である事実を知らせず、
例年通りに「暦屋」にお金を納めさせた…で「来年の暦原本」を渡した後
「わるいねぇ今度からこっち使うことにしたから」とあっさり変えてしまった
そのために、その年の暦屋さんは、刷ったものぜーんぶパァになったのだそうです。
さて、暦屋さんが損をすることもないこのご時世ですが…
「お金にとっての大晦日の今月」、内閣さん、大丈夫ですかねぇ…。
やり直しやボツが多かったです!
昭和天皇は1月に入って亡くなられたため、その後カレンダーの調整やら、デザイン変更・印刷直し等、やっぱり上の事情で下々が振り回されましたわ~。
最近のマスコミの自主規制、みんな右へならえの風潮、怖いことばかりです。
年度末がイギリスさんのまねっことは!
むやみやたらに道路を掘り返してるのが、今の時期の嫌なことです~!
いたしました。
年度末で各種申告の時期で、手続きが
済むとやれやれです。
ヒヤシンス鮮やかで、見事ですね。
あの時はそうでしたよね。
前年から「危篤じゃないか」と、
なんとなく気にしつつ年明けちゃった…と。
番組自粛したり大騒ぎでしたね。
年度末ってほんとに突然あちこち掘り返すから…。
困りますよねぇ。
そう「確定申告」、年金になるとそれがある…と、
父も急いで言ってました。
こちらは近くでやってくれるのですが、
何時間も待つのですよ。
いやだなーと今から思っています。
むかし『明治おばけ暦』というラジオドラマで新暦に移行したときの暦売りのドタバタをやっていたのを思い出しました。
そうなんです、毎年気にもしていなかったのですが、
両親が仕事をやめたとき、これからは年金で…なんて話から、
ふと年度末ってなんで半端なのよと。
それまでにも確定申告はずっとみていたというのに、
突然気がつきました。
昭和から平成になったときは、年号がかわっただけでも、
書類をかえたりとかいろいろありました。
年月そのものがかわったら、ほんとにおお騒動ですよね。
でも、実際に庶民に浸透するには時間がかかったそうです。