少しご報告ができます。
母はとりあえず、さきほど大好きな自宅に戻りました。
私は息子を明日預けなければならないので、そのしたくもあり、
もどってきて一段落してこれを書いています。のんきなことだ…と思われるでしょうね。
でも、今の私にできることは何もないのです。
実は、10月に「ブログ5年目です」とご挨拶した翌日に、父が病院帰りに寄りまして、
母の血液検査の結果などから「余命は3ヶ月」と言われてきたと…。
そのときで、計算して1月の半ばです。まぁ最悪のことを言われていると思って、
梅は見られるかな、桜はムリかな…と、そう思っていました。
父は「あと3ヶ月、オレは何をしてやれるだろう」と涙ぐんでおりました。
そのときに、最後まで家で看るつもりだといっても、病気があるのだから、
苦しいつらいになったら病院にいれてあげよう、それで帰ってくることを目標にしよう、
もしそれがかなわなくても、私は文句はないし、母も文句はいわないから、といいました。
結果的に、それから1ヵ月後、突然早朝に父から電話があり「呼吸がおかしい」と…。
とりあえず飛んでいきますと、もう喘息の発作のようにのどがヒューヒュー鳴っておりました。
すぐに救急車を呼んで、緊急入院を致しましたところ、肺に水がたまっていました。
薬での内科的処置では追いつかず、首から挿管して水を抜きました。
幸い大部分水も抜け、点滴なども取れて一般病棟に移れまして小康状態が続きましたが、
数日前に階段を一段下りるように、がくっと体調が崩れ、昨日(12月9日)の深夜に旅立ちました。
私は昨日、夕方に母に会いに行きまして、呼びかけると眼をわずかに開きました。
たまたま近所の方と古くからの友人がお見舞いに来てくださっていて、
ではそろそろ帰りましょうとなったとき、ふと思い立って私だけちょっと戻りました。
手を握りよびかけて「おかぁちゃん、ありがとな、私はだいじょうぶやしな」と、言いました。
ありがとなんてもうおわかれのような…でもすでに意識も時々混濁しておりましたので、
わかるうちに…とそういう思いもあったかと思います。親不孝かもしれませんが、
今は言えてよかったと思っています。それが生きている母との最期になりました。
少し熱っぽくて、手は暖かかったです。
実は昨日、医師からお話しがあるとのことで、父と二人で聴いたのですが、
そのときですでに厳しいですとのことと、万が一のときの延命は…ときかれました。
父も私も、ムリな延命はいいですとお願いしました。
そのお話しをした夜ですから、ほんとに切迫していたのですね。
最終的には「心不全」でしたが、元の病気は、C型肝炎による肝硬変の合併症です。
母の場合は30代半ばでの大病のときの「輸血」による感染でした。
当時はそんなことは全くモンダイにもなっておらず、またあの病気は長く発症しませんので、
全く気づかないまま、およそ病気もせずに元気で70まですごしました。
たまたま受けた健康診断でそれがわかり、それ以来肝臓の薬も飲んできたのですが、
なんと、50年目に発症したというわけです。
昨年来のカリウム不足やら足のむくみやら、様々こまごましたイロイロなことは、
みんな原因は肝臓だったわけですが、一箇所悪くなり始めると、次々出てくるわけですね。
本当に恐ろしい病気です。ただ、医師の話では、最終的には必ずガン化する、とのことでしたので、
もし早めにそうなっていたら、母はガンとも戦わなければならなかったわけで、
抗ガン剤のつらさなども見聞きして知っておりましたので、そこまでならなくて不幸中の幸いだと思っています。
母の実家は、祖父の失敗で没落したそうで、そうなってから生まれ、青春時代を戦争の中ですごし、
結婚したら「焼け野原の横浜」…私を生んで、夫に先立たれ…まぁなんとドラマチックなこと。
今の父と再婚してからも、いろいろありましたが、87年まっすぐすぎるほどまっすぐに生きた人でした。
優しい父に最後までこまごまと看取ってもらって、シアワセだったと思います。
ずいぶんと前に作った母のための経帷子を出しながら、使う日がきてしまったなぁと思いました。
母は私がこれを作っておいたことを知りません。親孝行なのか親不孝なのか分かりませんが、
真っ白な綸子の装束は、まだきばみもせずにきれいでした。
父もすでに覚悟はしていたようで、数日前に「もしものときの写真はコレにしようと思う」と、
母がきれいに笑っている写真を持ってきました。なぜかサッカーの日本選手のタオルを買ったとかで、
サムライブルーのスポーツタオルを持っておどけている写真。
母はシャイな人でカメラを向けると必ずわざわざ不機嫌なカオをすることが多くて…笑った写真は少ないのです。
いい写真が撮れると「これウチの葬式の写真な」といつも言ってまして、私は毎度、いったい何枚飾る気なんやと…。
結局その一番の笑顔の写真にしました。
フシギと今、悲しみはあまりありません。それよりも、私には全く似ていない彫りの深い美人で、
70過ぎてもピンヒールの靴とモダンなファッションで、タカタカ歩いていた母なのに、
見る影もなくやせ細り、病気のための紫斑やら免疫力低下の爪の変形など、正直見るのがとても切なかったのです。
少し前まで「はよ死にたい、みんなに迷惑かけとぅない」と、何度も言ってましたし。
悲しいよりもなによりも「あぁこれでやっとおかぁちゃんもラクにならはったんやな」と、それの方が先でした。
喪失感は父の方が大きいと思います。
母が入院したとたんに「やることがなくてなぁ」と、我が家の調子の悪い鍵を直しにきたり
買い物に行って我が家の分までおかずを届けにきたり…
しまいに運動不足になるからと、毎日病院まで自転車で30分かけて面会に行ってくれていました。
次は私が、この父を大切にしなければならないと思っています。
母が認知症と診断されて以来、やれ圧迫骨折したの怪我をしたの、
脱水で入院したのと、いろいろ書いてまいりまして、
そのつど皆様から励ましやお見舞いのお言葉を頂いてきました。
本当に本当に、ありがとうございました。どれだけはげみになったかしれません。
もう楽になった母もきっと「ほんまにおおきに~」といっていると思います。
夜が明けたら、これからの相談が始まります。
しばらくはお休みさせていただきます。
眠る気にもなれなくて、書き綴りました。
私は元気です。
ご心配、ありがとうございました。
最期を看取れて幸いでしたね。
まだ頭が回転していない時に訃報を
知ったものですから、驚きが大きくて
言葉が見つかりません。
でも、とんぼ様の今のお気持ちはよく
分かります。
寒い時期ですからお体無理のないように
して下さいね。
お母様のご冥福をお祈りします。
12月の澄み切った青空のもと、
旅立たれたお母様はきっととんぼさんに
感謝をなさりながらでしたでしょう。
とんぼさんのお心遣いは折りにふれて深く
感じておりました。
ここ数日は悲しむ間もないほどに、お父様と
ご一緒にお気をつかわれる日々になりますが、
お母様への精一杯の思いで乗り切ってくださいね。
心からお悔やみを申し上げます。
暑さ寒さもさわりはないか、おりにふれ気にかけておりました。
(*_ _)人
おからだいたわられて、乗り切られてください。
ご冥福をおいのりいたします。
寒さも厳しいですし、お送りされた後には一気に疲れが出るかもしれませんので、どうか風邪などひかないようお気をつけください。
心よりご冥福をお祈りいたします…。
紋切り型の上記の言葉も、文字にすると本当にその通りだと思わされます。
寒くなってまいりました。
どうか御身お大切に。
ネットのこちら側で母上様のご冥福をお祈りしております。
お残りになられたお父様を大切にしてあげて下さい。