本日の羽裏、芝居柄です。地が白いのですが、それほど黄ばみはきていませんので
それほど古いものではないと思います。
ごらんのとおり、歌舞伎の主役を並べたもの、役者絵ではなく、
役をそのまま図柄にしてあります。真ん中、いなせなあにぃは「いがみの権太」。
今手元に布がないものですから、字が読み取れないのですが、
かろうじて「義経千本桜」と・・・。左の下は「八重垣姫」かなぁ・・。
ほかにもこんな柄があります。
歌舞伎については、私は浅いどころか上っ面しか知りません。
まぁ嫌いじゃないので、ちょっとしたストーリーとか、名場面くらいは
ほんの少しわかるのですが、ここにおいでの皆様の中には「お芝居好き」も
いらっしゃいますから、お芝居のほうにつきましては、お任せしましょう。
「あの絵はこういう演目ののなんという役だよ」と、コメントででも・・。
ということで、私のほうは「お化粧」について・・・。
まずは歌舞伎特有の芝居化粧「隈取」について・・・。
歌舞伎には「和事」「荒事」と呼ばれるわけ方があります。
テレビドラマでいえば「恋愛ドラマ」とか「推理ドラマ」とか
「ホームドラマ」というようなジャンル分けのこと。
「和事」というのは上方歌舞伎で人気を博した「男女の物語」いろいろ。
最初は「傾城買い」という(傾城とは一国の城をも傾けるほどの美人)、
男が女を買うことにかかわる、こっけいな芝居が始まりでしたが、
やがてそれに情愛がからんで、傾城に本気で恋をして身を持ち崩し・・とか
身分違いの恋に悩んで・・といった複雑な話になり、
これらの情愛の絡む物語の芝居を「和事」と称するようになりました。
一方江戸歌舞伎は、強い男、男の世界・英雄・・といったイメージでしょうか、
そういう演目が盛んに上演され、それが「荒事」と呼ばれました。
和事は「坂田藤十郎」、荒事は「市川団十郎」が確立したといわれています。
こういう具合にまったく相反するものが演じられ、受けた・・という背景には
やはり「時代」と「地域」というものがあります。
和事荒事が確立されたのは「元禄時代」、この時代は文化の中心の多くは上方で
近松門左衛門が情愛豊かな「人形浄瑠璃」の台本を書き、
それが芝居の演目にも取り上げられていきました。
一方、江戸はようやく幕府が天下を統一し、多くの人が流れ込んできたわけですが
その多くは男性で、一旗あげよう・・という勢い。町は活気に満ちていて
「和事」より「英雄が出てきて、悪をやっつける」というスカッとする
芝居のほうがウケたわけですね。
さて、そこで「隈取」ですが、これは「荒事」の芝居のいわば
演出のためのメイクとして始められたもの。悪人に腹を立てたり、
さぁこれから戦うぞ、というようなときの興奮で血管が浮き上がるとか、、
筋肉が盛り上がるとか、あるいはヒーローとしてかっこいい表情とか
それを誇張させるためのメイクです。もちろん、悪役側のものもあります。
おおまかにいいますと、「紅隈(べにぐま)」「藍隈(あいぐま)」
「代赭隈(たいしゃぐま)」の三種。
「紅隈」は、主役の二枚目とか、若くてかっこいい、今で言う「イケメン」、
いざというとき颯爽とスーパーマンになるようなヒーローなど、
同じ紅と墨でも描き方塗り方ぼかし方で、変えたわけです。
「藍隈」は、読んで字のごとく「青い隈」で、極悪人、または幽霊など
人でないもの。「代赭隈」は妖怪系や、邪心のある悪役の場合。
現代に暮らす私たちにとっては、日本髪のカツラや普段見かけない衣装など
それを見ただけでも「時代劇」と感じますが、誰もが髪を結い、
全員着物着て当たり前の時代にあっては、豪華な衣装や大ぶりのかつら
華やかなかんざしや飾りもの、そして誇張された化粧などは
「芝居」という非現実の世界にお客をいざなうために、
今よりずっと大きな意味があったのでしょうね。
さて、それでは「ふつーの化粧」について・・・。
太古の昔にあっては「化粧」は耳や鼻、口など、外に向いてあいている部分から
「悪魔」が入り込むのを防ぐなど、呪術的な意味が多かったといわれています。
奈良時代の女性は、大陸文化の影響を受けて、額に赤いもようを描いています。
平安時代にはいっても「化粧」というのは、何か特別な日、
以前書きました「ハレとケ」の「ハレ」のほうですね。
そういう日にするもの、つまり、当時の貴族の暮らしは、
何かと「神事」に関わりが深かったわけで、神と対するときには、
より神に近づき、その御心に触れる、霊的に近づく・・といった
特別な心理的状態を整える、そのための化粧でした。
今でも、未開の土地などの呪術師など、祈りのための化粧というのをしますね。
日本では、最初は特別だったものが、やがて「身だしなみ」という
意味合いを持って、日常的に行われるようになったわけです。
当時の化粧は「髪に香油をつける」「眉をととのえる」
「おしろいを塗る」「紅を引く」の四つ。
特に眉に関しては、だんだん形が変わってきて、太くなっていったようです。
十二単の美女は、通常の眉の上にスプレーでプシュっとやったような
まるっこい眉が描いてありますね。時代が下がるにつれて、年齢や男女の別、
慶事・凶事などによって、さまざまな眉の書き方が決められていたそうです。
おまけに貴族は男性もしていましたから、何かと決まりごとが多くて
大変だったようです。「ぼくの口紅どこぉ・・」なんて?
今はない特殊な化粧?「鉄漿(おはぐろ)」は、平安の昔から、
明治・大正まで続いた息の長~~い化粧でした。
江戸時代になっても、化粧の基本は眉の黒、おしろいの白、紅の赤、と
三種しかなかったわけですが、その中で書き方や塗り方などを工夫し、
おしゃれを楽しんでいたのですね。それと「約束事」といいますか、
「鉄漿」はいついつつけるようになる、とか、眉は結婚したら剃る、とか
そういう決まりにあわせて、それを年相応の魅力のひとつとして
生かしていたわけです。
紅についても色の濃い薄いなど流行があり、江戸後期には「笹色紅」という
玉虫に光る紅を濃く塗るとか、口を小さく見せるようにチョンとさす
とか下唇だけ塗るとか・・それなりの流行はありました。
いつの時代も、女性は自分を美しく見せる努力は、決して怠らんのですねぇ。
さて、隈取と普通のお化粧・・と欲張ったために、
なんだか散漫になってしまいました。すみません。
とりあえず、お化粧からずいぶん遠ざかってしまったとんぼは、
このところ眉の手入れもしてません・・女やめたわけじゃないんですがねぇ。
ちょっと気をつけなきゃ・・。
でも、ゆれる電車内ではみ出さずに口紅やアイラインをひくような
「技術と度胸」はありまへ~ん。
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