ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

はでぇなじゅばんです。

2006-07-06 18:58:45 | 着物・古布

相変わらず広げて写せなくてすみません。いずれHPで・・・。
鮮やかな「青」、瑠璃紺に近いでしょうか、写真よりもう少し濃い目です。
鹿の子と平織の縞模様の地紋がある紋錦紗です。
このじゅばんは着物の「繰り回し」のようです。
といいましても、ほんとに使えるところを目いっぱい・・と言う感じで、
裏も裏地がつぎはぎです。棒衿仕立てなのですが、着ると前が重なりません。
後ろ幅がかなり広いので、最初は太った人のものかと思ったのですが、
脇線を脇にあてると衿が前まで来ない・・・半てんみたいです。
よく見ると、前の衿の辺りからおなかにかけて、スナップがついているんです。
そのスナップをとめて「無理やり」前を重ねると、脇はこんな具合・・。
(ちらっと見えているローズピンクは、デブとんぼのてーしゃつです)





つまり前の重なり分が出ないので、後ろを幅いっぱいにして、
あとはもう前に引っ張って着よう、という感じ・・、
脇は着物を着てしまえば見えないだろう・・と言うことではないかと思います。
そんなにしても、使ったんですね。
ところで、肩先から右袖の柄、なんか棒みたいですね。
実はこれ、土俵の「四本柱」なんです。
現代の土俵では柱はありませんが、昔はあったんですね。
つまりこのじゅばん、元着物、は「相撲柄」なんです。
裾模様はこちら、





左は「まわし」、右は上のほうが千両箱のようなものに
のしがかかっているように見えます。その下がよくわからないのですが、
「稲川関へ」とあるところを見ると、やはりファンからの贈り物・・でしょう。
裏の下のほうには軍配もあります。





こちらは「四本柱」と上の幕に四房のひとつ「青房」が描かれています。
本来「上の幕」は「水引幕」とよばれ、紫なのですが、
着物だからでしょう柄入り・・、青地に水色で紗綾型柄を入れてあります。
四房は、土俵の守り、青→東 赤→南 白→西 黒→北と決まっています。
昔柱だったころは、房ではなく柱そのものをそれぞれの色の布で巻いたそうです。
今は「釣り屋根」ですから、屋根の四隅に房としてついています。
正確にいいますと「青→東」は東北、「赤→南」は東南・・とズレますが、
代わりといってはなんですが、水引幕の真ん中あたりに、巻き上げるための
揚巻(あげまき)という小ぶりの房がさがっており、
それはそれぞれ「東西南北」にちゃんと配置されております。
そもそもズレたのは、土俵が柱のある角を東西南北に向けるのではなく、
いわば「辺(面)」にあたるところがその方向を向くように作られたからです。
北側を「正面」、南側を「向こう正面」といいますね。





衿の部分は、元の裾模様の部分などを切って作ってあります。
衿分だけでもほかの布を使えば、柄を分断せず前身ごろもちゃんとできたかも。
布がなかったのか、それともほかの布を入れたくなかったのか・・・。
とにかく「むりやりじゅばん」になってしまったわけですね。

さて、それでは「お相撲」の話しを・・。
たしか以前にも書きましたので、かいつまんで・・。
相撲はたいへん歴史の古い武道です。
人類最初の相撲は「野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹴速(たいまのけはや)」
だといわれていますが、もちろん今の相撲ルールではなく、
野見宿禰は蹴り技で、當麻蹴速の肋骨と腰骨を折って殺してしまった
といわれています。相撲というより完全な「武術」だったわけですが、
野見宿禰は、今でも「相撲の祖」といわれています。
「K-1」の祖・・でないの??
史実としては、『日本書紀』に642年に、百済よりの賓客をもてなすため
人を選んで相撲をとらせたという記述があるそうです。

相撲は「神事」として行われてきた意味合いが強く、
聖武天皇が734年に相撲をご覧になり、それが「相撲節会(すもうせちえ)」
という儀式の最初といわれています。その後節会は「天覧相撲」として、
毎年の行事になったわけですが、源平の戦いを機に行われなくなりました。
その後武家の台頭で、相撲は「武術」や「鍛錬」として奨励されました。
今の土俵の元を作ったのは「信長」といわれています。
世情が落ち着いた江戸時代に入ると「勧進相撲」が盛んに行われるようになり、
やがて定期的に開催されるようになりました。
大名お抱えの力士がおり、いわば「藩の名誉」をかけて戦っていたわけです。
明治に入って廃藩置県があり、「藩お抱え」という力士の身分はなくなりました。
そのかわり「相撲会所」というものができ、今度は関西地区・・
というような分け方で、相撲の歴史はつながったわけです。
今の「相撲協会」ができたのは昭和2年、
東西に分かれていたものが合併しました。。
戦争で国技館も消失しましたが、相撲が消滅することはなく、
GHQの許可を得るなど苦労しつつ、終戦の年の秋には、
仮の状態ではあるものの再開されました。
その後の相撲界については、皆さんご承知のところです。

この着物は、相撲好きのタニマチ(相撲の後援者)が作らせたものと思います。
「字」の部分に刺繍の跡も見えますから、かなり派手な着物だったでしょうね。
普段に着るものではなく、何かイベントとか・・・。
今なら「カラオケ大会の衣装」といったら、ピッタリ?!
で「相撲甚句」を歌う・・・。

どうにもハデですから、外国人なら「ガウン」にしそうですね。
これはもう、どうにもなりませんので、
珍しい柄としてこのままとっておこうと思います。
前後ろで「繰越」の揚げをして、半てんにしてもいいかな??
ダレが着るのよ・・・。






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5 コメント

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Unknown (とんぼ)
2006-07-07 21:28:10
えいどん様

柄つけの位置からいって羽織ではなかったと思います。裏は質のあまりよくない平絹です。普通は堂裏は羽二重ですが、袖の中などピンクと白の平絹がついであったりして、相当なものです。戦後のもののない時期にあるだけの材料かき集めて作ったのかもしれませんね。衿分はどうしてもたりなかったらしくて、えりのところ20センチくらいだけ、よく似た色のお召しを使っているんです。一番上の写真の襟、首のところよーく見るとわずかに色が違います。真ん中のぼんやり白い丸がお召しの柄です。モノがなかったということもあるのでしょうが、とにかく徹底的に使っていますねぇ。



陽花様

私もけっこう「かわったもん好き」ですが、これには負けました。昔は今よりハデですが、ほんとおもしろいものです。着物だったときにきているところを見たかったです。
返信する
Unknown (陽花)
2006-07-07 20:08:42
本当に派手派手襦袢ですね。

これが元着物だということなので

色、柄の好みは、いつも思うこと

ですが本当に人それぞれですね。

こういう元着物どんな所へ着て行かれ

たのかな~なんて思ってしまいます。
返信する
無理やり襦袢 (えいどん)
2006-07-07 19:51:21
とんぼ様

丸く見えてる所、継ぎを当ててあるのかと思えばスナップだったんですね。こういうややこしいことをしているの、ものすごく興味をかきたてられます。衿をそのまま下にずらしたら身頃と柄が合いますね。ひょっとして羽織だったかも。それで前幅が狭いのかなとも思えます。裏もみてみたいです。
返信する
語源は・・ (とんぼ)
2006-07-07 19:29:08
Fujipi様

えと・・・「相撲」と言う熟語は後からできたものと考えられますので、語源としては「すまふ」、字は「争う」のほうです。負けまいと張り合う・・と言う意味の「すまふ(う)」が「すもう」になったと考えられています。日本書記に「すまひとらしむ(相撲をとった)」という記述があるそうです。「すもう」の一字で「争う」意味だったのですね。その後「当て字」と言う形で「あいなぐりそうろう」・・で「相撲」になったのではないでしょうか。江戸時代は「女人禁制」でしたから、ほんとに「男の世界」だったのでしょうね。
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関取ならでは (Fujipi)
2006-07-07 13:02:34
の、ハデさですね。杉浦日向子氏の本に「江戸の色男」とありまして「江戸の三男」(イイ男)は火消しの頭、与力、力士、となってました。力士は大きいので目立つ、どうせ目立つなら思い切り目立つ・・・・と華美な着物を着ていた、そうです。タニマチの人も大きくなるのを見込んで仕立ててもらえばよかったのに・・・



 Yahooの辞書で調べたら相撲の「撲」は「なぐる」「はる」の意味があるので、「あいなぐり、はる」ところから「相撲」なのでしょうか? 江戸時代は土俵上でも激しく戦い、見物客の間でも喧嘩が絶えなかった・・とか。今ではは随分と穏やかになったのでしょうが、肉と肉のぶつかる「バチッ」という音は観ている(未だTVでしか見た事がありません)自分も力がはいります。
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