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ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

屋号・名前

2010-07-14 17:30:41 | 昔の道具・暮らし
ミクシーのほうでよそ様のお話しを拝読しまして…。お題にいただきました。
写真は、それらしきものがありませんでしたので、かなりこじつけで
「昔のお店の図柄」です。

今の時代になっても、地方へ行くと「屋号」はりっぱに生きております。
私の母方の田舎では、屋号は残っておりませんが「通り名」はまだあります。
残念なことに、それももう呼び交わすのも年寄りだけになりましたが…。
母の実家の通り名は「峠」です。
母方の祖父のご先祖が、峠の茶店で財を成したのだと聞いています。
その子孫が峠を降りて、下に田んぼを買い、そこで暮らしていたわけですが、
平らになっても「峠」という通り名でとおっていたそうです。
ちなみに祖父は「峠の平吉さん」正確には「とうげのへぇきったん」、
跡取りだった母の兄は「峠の喜一郎」こと「とうげのきいっつぁん」でした。

その「峠」というのは、実は今もあります。
地図でいうと京都の南西、もう大阪との「府境」に近いところです。
通称「楊谷(やなぎたに)の観音様」、正式名称は「楊谷寺(ようこくじ)」、
そこへのいわば参道…といっても山道ですが。このお寺は800年くらいの建立ですから、
ものすごく古いお寺、ご本尊は十一面観音で「眼病」に特にご利益があるとされています。
ホームページはこちら
私はたぶん小さいころにいったはずなのですが、記憶がまったくありません。
かなり大きいお寺で、最近はアジサイの名所でもあるそうなのですが、
なにせ今に至るも交通の便がねぇ…というところで「隠れた花ともみじの名所」です。
母方の実家近くの駅からは小一時間歩かねばなりません。いくのヤダ…。
この観音様に行く道を「楊谷道」といって、今もありますが、
そこの峠に、ご先祖が茶店から今で言うドライブインですかね、
そういうものを営んで、財を成したそうで…まさか祖父の代で没落するとは
思いもよらなかったでしょう。「峠」という通り名だけ残ったものの、
昔を知る年寄りの減ってきている今、もうすぐそれもなくなりますね。

私くらいの年代だと、親は戦後のどさくさで家が焼けたり、疎開先で落ち着いたりで、
もう地元もへったくれもありませんで…。
父などは元々両親は水戸と福島ですが、我が家はいまやりっぱな「馬の骨」一族です。

さて話がそれましたが「屋号」というのは元々は「名字がわり」に使われたもの。
武家の社会になって、武士と公家以外は名字を持つことが基本的に許されませんでしたから
かわりに屋号を持ったわけです。「○○屋」というと、お店のように感じますが、
「屋」をつけることで名字ではないとしたのですね。
ただ、この政策は江戸時代になってからのもので、
それまでに庶民農民でも名字を持つものもたくさんいたわけです。
「つけてはならぬ、もってはならぬ」といわれて公に名乗ることはなくても、
屋号として呼んだり、記録には残したりはあったわけですね。
ここがややこしいところです。
昔はヒトの移動はほとんどありませんでしたから、「何々屋」といえば、
代々そこで暮らしたので、不都合はありませんでした。
また、地方から奉公に出るときなどは、それぞの地域のお寺が「寺証文」という
身分証明書を発行しましたので「○○村 百姓五助」などでよかったのですね。
お寺は当時役所の勤めも果たしていたわけです。

名前はその人をあらわす大事なものですが、身分制度や貧富の差、
男女差別などが大きかった昔は、名前はいまよりさらに重要だったわけです。
平安時代の女性には名前がない、といいますが、そりゃあんまりじゃ。
だいたい名前がなかったら家の中でも「ほらそこのちょっと、あんた」…うそじゃ…。
女の子でも、呼び名はあったはずです。ただ、身分ということで言うなら、
認められなかったために「何々中将なんたらの娘」なんていわれたり、
納言などの格でいわれたりしたんですね。

よく「氏名」といいます。「氏」は「うじ」、つまり「一族」を表す言葉、
「姓名」というときの「姓」は「かばね」、これも一族のことです。今は同じに扱いますが
昔は「姓」はたどっていった大昔の「家の格付け」の名前、たとえば「臣(おみ)」とか
「連(むらじ)」とか…これはその人の地位や身分をあらわします。
藤原の朝臣なんていいますね。あれのことです。
今は「名字」というと「氏」のことですが、かつては別物。
なにしろ名前の付け方というのが「その土地」の名前だったり、
一家の邸宅の地名だったりで、一定していませんでしたし、
時代がさがって「何々一族」なんて出てくると、族の名前がついたり、
時にはごほうびとして帝や殿様から名前を賜ったりで、ころころかわったりもする…。
秀吉さんなんていい例ですね。
そんなわけで、本来は元々の名字だの系譜をあらわすもの(源氏とかだの)、
先祖がはっきりしている場合は、家の格付けをあらわすものなどだらだらと並び、
個をあらわす名前にたどりつくまでに、長々とつくのも普通でした。
「○○屋の三吉」なんてほうがあっさりしていいですね。

さて、お話があちこち飛びましたが、屋号はその地域での呼び方ですが、
横溝正史の小説には、この屋号が出てきます。「悪魔の手鞠歌」では、
この屋号にそって殺人が起きるという設定。秤屋だの枡屋だのと出てきますね。
その家を起こしたヒトの名前もあれば、先祖の出身地とか、職業とかさまざまです。
歌舞伎役者さんでは「成田屋」という屋号が最初といわれています。
初代市川団十郎が成田山を信仰していたから、だそうですが、
今でこそ歌舞伎といえば「伝統芸能」ですけれど、かつては「河原モノ」と呼ばれ、
いまでいう市民権はありませんでした。江戸時代の中ごろでしたか、
やっと幕府によって認められたのだったと思います。(このあたりあやふや)
そうなってからは堂々と屋号も使えたのですね。

なんだかまとまりのないお話になりましたので、本日のおまけ話。
父は今日と明日、病院で「母のための病人食」の講習を受けに行くことになっていました。
お昼ごはんを作らされるらしい、と聞いていたので、帰りは午後になると思ったら、
11時にやってきました。中止になったのかと思ったらそうではなく、
専門職の講師が一人ついて、まず今までの自宅での食事の様子を聞かれたそうで。
母は元々が食べませんし、ミキサー食までは行かなくても一歩手前みたいなものでした。
おまけにいろいろ考えて、すきなもので栄養があってとか、便秘がちだから繊維質をとか、
父はそりゃもう一生懸命やっておりました。
それをきいた講師の方が「あっもう何も教えることはありません。
それをミキサーにかけりゃいいだけのことで」と、それで終わりだったそうです。
「明日も来なくていいって、30分でお払い箱になっちまったよ」と帰ってきたわけで…。
はりきって一番いい包丁まで用意していったのに…とボヤいてました。
じーちゃん、アンタはすごいっ!
さらにこの話にはオチがありまして、母はなにしろ偏食のくせにヘンにグルメですから
塩昆布でもちりめんじゃこでも、せんべにいたるまでうるさいので、
京都からとりよせている、といったら、講師が驚いて「あらぁお姫様なんですねぇ」
答えて父は「いや、今の状況は『おしめさま』です」…。
大爆笑でかえってきたそうで。
その「おしめさま」、今日はシャワーを使わせてもらえるといってました。
ご退院の際は、沈香でも焚いてお迎えいたしますか…。ちと黨が立ったおしめさまですが。



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8 コメント

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Unknown (陽花)
2010-07-14 22:00:32
私の実家は昔、いおう屋だったとか・・・
両親に聞いた訳でもないんですが、田舎に
嫁いだ妹が高齢の方に「いおう屋の子か」と
言われた事があると言っていました。
長女も知っていて、あとの姉妹は初耳・・と
いう何とも不思議な話でした。
今で言うマッチを売っていたのかしら・・・
子孫が詳しく知らなくても、古くからの人は
やはり屋号で言うんですね。

お父様、拍子抜けでしたか。
これだけ細やかにされるお父様に講師の方も
教える事なんて無いですよね。

それにしてもおしめさま、笑ってはいけない
けれどとっさに出るその言葉にお座布団!です。
返信する
屋号 (otyukun)
2010-07-14 23:10:48
昔、我が父が悉皆屋をしていた頃「京屋」と名乗っていました。
厚かましい名前です。
廃れたのは名前負けかな。

楊谷観音は聞いた事があります。
京都と大阪の県境の辺りは紅葉の隠れた名所と聞いています。
一度行かねばなりませんな。

母上の無事ご帰還おめでとうございます。
思わず頬の緩む「おしめさま」の多少のわがまま、聞けるうちが花。
しんどいけど、一人しか居ない母君、暴れさせておいて「おしめさま」めがと心の中で悪態をつくのも一興です。
返信する
Unknown (ゆん)
2010-07-15 11:27:31
屋号は、ある意味、『差別の証明』でもありますけれど、その存在そのものが消えていくのを見るにつけ、何とも切ない気持ちになります。

 子どもたちには、しっかり表記も教えてありますよ^^
 宗派と家紋と屋号と。田んぼはわかるけど、山の境界は全然覚えていないので、反省

「おしめさま」!大人たちは 寝付いた年寄りのこと、昔そう呼んでました。あたたかい気持ちですね。お互い様・が透けて見えるようで。


 お父様も、とんぼさんもお母様も息子さんも、みんなそれぞれに力を合わせてらっしゃるんですね。
 

 私は『介護』の中に何を見いだせるかなぁ。
返信する
Unknown (とんぼ)
2010-07-15 19:47:29
陽花様

「いおう屋」さん、そういわれれば
マッチとか、何か燃料系を扱っていたのかも、ですね。
お年寄りがいなくなって、わからなくなった屋号も
たくさんあるのでしょうね。

お座布団いただいて、父も喜びます。
おしめさまのわがままがどうなるか、
そのあたりがまた、次のポイントですねぇ。
返信する
Unknown (とんぼ)
2010-07-15 20:02:21
otyukun様

京屋さんですか、まさしくですね。
今はお使いになられないのですか?

楊谷観音は、今でも何もない山の中…、
元々が平家の落人だそうで。
母方の祖母の実家もありましたが、
やはり「揚羽蝶」の家紋です。
すでに離れまして、広い土地も「霊園」として売ってしまったそうです。

つきの17日には、大山崎駅から「送迎バス」が
でています。
ちなみに大山崎には、アサヒビールの大山崎山荘美術館とサントリーの蒸留所があります。
一度おでかけして「リポート」を…!?

返信する
Unknown (とんぼ)
2010-07-15 20:13:01
ゆん様

お年寄りから伝わるはずのものが、
少しずつなくなっていくのは、切ないですね。
宗教も、むずかしいことではなく、
お地蔵さんや道祖神をみたら、
無心で手を合わせる…なんてことも減りました。

「おしめさま」は、問題とともに帰ってきますが、
受け入れて、なんとかともに一歩ずつ…。
やってみなけりゃわからないことばかりです。
元からお願いしたかった「せんせ」に、
診てもらえることになっただけでも、安心材料です。
返信する
Unknown (柳蛙)
2010-07-29 18:43:06
屋号、うちの地域は現役で残って使ってます。
屋号付の電話帳がいまでも配られますよ。

残念ながら私はあまり使わないのですが(聞いてもどこの家だか分らないんです)、
親の代位だと人が分らなくても屋号で大体の繋がりが分るようです。

浴衣談義、書き逃げ状態ですいません。
せっかくお返事の記事をいただいたので、なにかコメントをと思ったのですが、うまく事が言葉まとまりませんでした。
入口が広く選択肢が多くなり、新旧共に着物が良い方へ進んでくれればと思っております。

お母様の退院おめでとうございます。
お医者様も良い方に決まったんですね。
とんぼさんもお体に気をつけて下さいね。
返信する
Unknown (とんぼ)
2010-07-30 21:00:37
柳蛙様

母の田舎でも「○○のとこの跡取りさんが」とか
それでハナシが通じていました。
まだまだなくなっていないんですね。
残ってほしいものだと思います。

着物の方向が、みんなが気持ちよく楽しめるほうに
向いてほしいものだと思っています。

母のこと、ありがとうございます。
父まで気持ちが楽になったのか、
元気が戻って、よかったと思っています。
ご心配かけました。
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