いいお天気です。
広島も長崎も「その日」はとてもいいお天気だったと…。
そりゃ効果を考えて晴れ渡った日を選んだのでしょうから。
物語…という言葉があります。
意味を調べると、広域的でめんどくさいのですが、要するに人が作ったり、調べたりしたことを
話したり、文にしたり…そういうものです。
私はもうひとつ、まったく別の意味で「モノがたり」という言葉を勝手に作りました。
まんま「モノ」が語ること、です。
またややこしいことを言い出しおってからに…すみません。
このところの「お手玉」から、なんとなく「古くからあるもの」について、いろいろ思っていました。
そして、今私たちの周りにある「モノ」や「道具」のすべてが、何千年という長さのなかで、
先人たちが、いろいろ考えたり、悩んだり、見つけたり、作ったり、壊したり、直したり、
付け足したり、削り取ったり…そうやって伝えて、残してきたものなのだなぁ、と思ったわけです。
そう考えると、もうあふれて多すぎる「モノ」ですが、それがあるのが当たり前…と思っては
感謝に欠けること、今こそ、きちんと「選択」して、ひとつのものでも大切に使わなければと思います。
もうひとつ、今日は「ナガサキの日」、
先日ミクシのほうで「写真よりも強く語りかけるのは、焼け焦げた弁当箱や服だ」…という発言がありました。
私は長崎の資料館で、その「弁当箱」の現物を見ています。昔の楕円形のお弁当箱。
今のようなプラだったら、溶けてなくなっていたでしょう。
なんとか形をとどめたそのお弁当箱の中のご飯粒は、炭化して真っ黒な塊になっていました。
片側だけ激しく焼けたシャツや、それだけ出されたら「おもしろいアート」としか見えないくっついたガラス瓶…
そういうものを実際に見たことで「一瞬にして…」というのを、はっきり感じました。
展示品は、ただじっとだまって、ガラスケースのなかで並んでいるだけです。
それでもなんとたくさんのことをつぶやいていることか。
これも大切な「モノがたり」だとおもいました。
モノが語る…それは、こちらが感知しようとしなければ、聞き逃してしまう声です。
今、朝になって、窓をあけて、いつもの風景が見えて、ガスはスイッチひとつで火がついて、
水道ひねれば水が出て、冷蔵庫にクビつっこんで「今朝は豆腐の味噌汁…」なんて言えて…幸せですね。
つい67年前、今ほど便利でなかったとしても、たとえ薪と井戸のくらしであっても、
原爆というものが、その「日常」を、ばっさりと切り取って、そこから先をただの闇にしてしまったという現実を、
忘れてはならないと思います。
今、原発事故のために、焼け野原になったわけでもないのに、自宅に近寄ることもできず、
荒れてゆく田畑をどうすることもできず、家畜を死なせなければならなかった人たちがいます。
大切な家族をなくした人も、暮らしを壊された人もいます。それでも人はまた立ち上がろうとする…。
「モノ」はあればいいというものではありませんが、語りかけてくるモノをたくさん持ち、
それを大切にしようというキモチは、先達たちに対しても、礼儀ではないかと思います。
来週8月17日、NHKのBS1スペシャルで「ディア・ヒロシマ」という、ドキュメンタリーがあります。
広島の遺品を写真にしたものをカナダで展示したドキュメンタリーだそうです。
ここにも「モノがたり」があります。ぜひ、見たいと思っています。
喜んでいられない事を昨年の大震災で思い知ら
されましたね。
広島や長崎の原爆も放射能汚染も忘れない、
繰り返さないですね。
あの震災のときは、ああ人間って弱いもんだわと、
日ごろの便利さどっぷりを、反省しましたわ。
茨城に親戚がいるのですが、一時期あのあたりの野菜が
売れなかったり、今でも親がこどものために
放射能を気にしたりがあるそうです。
ほんとに「忘れちゃいけない」ですね。