ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

免許証

2011-06-16 13:29:15 | つれづれ

 

写真は「ミゼットの置物」、ネコさん三匹なついてます。こんな風景、見ましたわ、昔。

 

さて、保険の書類に必要で免許証のコピーとりました。この前書き換えたと思ったのに…もう来年ですわ。

ツギの写真こそ、ナントカもう少し見られるカオで…と毎度思うのに…。

どうして免許証の写真って思い通りに写らないんでしょうねぇ。

以前のが、ものすごく顔色悪くて、ほんとに指名手配写真みたいだったので、

この前の書き換えのときに、少しチークを広め強めにつけていったんです。

そしたら今度はほっぺの赤いのばっかりが強く出ちゃって、まるで「おてもやん」…。

いやいや見ようによっては「酔っ払ってるみたい」…まずいじゃん!

できることなら、今度は写真貼り付けのときに、そばで調整指導したいですわ。

ついでにシワなんぞも修正しちゃったりして。

 

さて、私の免許は「普通乗用車」のみ、私が免許取得に通っていた時期のちょっと前から、

普通免取れば自動的に「原付」がくっつくってのがなくなりました。あると便利なのに…。

ついでのことに、私が卒検の準備をはじめたころに「オートマ科」ができたんです。

で、先日父と免許の話をしていまして、昔の免許取得の話を聞きました。

以前、戦争のためにガソリンがない時代に「木炭車」というのがあったという話しを父から聞いていまして、

教習所に薪を持っていったと…確認したら、そういう時代だったというだけで、

父が取ったときはすでにガソリンだったそうです。でも、そのほかにオモシロイ話を聞きました。

 

父が免許を取ったのは昭和26年、当時横浜の六角橋にあった、今なら免許センターみたいなところで受験、

ここは今は交通安全センターになっているらしいです。

まず、路上試験が公道ではなく、所内に作られたコースを指定どおりに走る、それを判定されるわけです。

また車そのものがロクにない時代ですから、試験用車両はサイドブレーキが壊れていたそうです。

それで、出発点がすこーし坂道になっていて、試験の最後はその坂道をバックであがって停車で終了。

一応サイドブレーキを引くわけですが、壊れているので当然「キカナイ」、

そこで、試験官助手ってのが、車がとまると同時にタイヤの前に丸太をパッと突っ込む…。

次の人の試験が始まると、サイドブレーキをはずしたところをみはからって丸太をどける…。

しかも、試験終了時にもエンジンを切らない、一度切れるとかけるのが大変だから…。

当時切れたらエンジンかけるのに「クランク」が必要なものも多かったとか。

お若い方はご存知ないでしょうけれど、要するに手回しの棒があって、これを車の前にはめ込んで、

グルグルと回してエンジンをかける…そのため、助手の若い人は常に片手にクランク、片手に丸太を持って、

試験官と並んでいたそうです。いやぁなんとも…アナログですなぁ。

 

そのころ、免許を取ること自体が今よりずっと簡素で…というより、今では考えられないほど

いいかげん?おおざっぱ?ラフ???? 試験は1日で終わったそうです。

ちょっと調べてみますと、戦後、自動車の需要は増える一方ですから、当然その体制というのも

こまごま変わっているのですが、それは免許の種類とか交通法規の整備などの内容がかわっているだけ。

実は今のように教習所で「法規」と「実施」の授業を規定時間数受講する…がなかったんですね。

だから、父の場合も二回目で合格したそうで、今と違うのは「まず乗る」、合格すると「ペーパーテスト」

それで合格ならそのまま警察へ…だもんで1日で取れたのだそうです。

フシギに思って「でも、試験受けるのに乗れるというのは、どこかで乗ってなきゃならんでしょ。

そのときは無免許ってわけ?」と聞いたら「そーだよ」…おぉぉぉぉ。

父の場合は、知り合いに当時進駐軍の車両運搬をしている人がいたので、

まだまだ野原や田んぼの残るちょっとイナカのほうの一本道で、隣に乗ってもらって練習したのだそうです。

まぁ外国では、今でも教習所へ行くのではなく、免許取得者に隣に乗ってもらっていきなり公道走行…

というところもありますから、日本は進んでた?違うってば。

国によってさまざま事情が違うのですから、いろいろな方法があっておかしくないと思いますが、

今の日本では…できるだけ免許取得は厳しい方が…なぁんてね、私もう持ってるし!?

 

父は元々カンのいい人ですし、運転どころか修理もする人ですから、車は得意分野だったのでしょうね。

ちなみに試験のときも、車には試験官は同乗せず、外でずーっと見ていて判定したのだそうです。、

一緒に受けた知り合いは、まぁコースを外れるわ外れるわ、いまでいうなら「クランクで乗り上げ」といった感じで、

コースとして作られているところから、脇の盛り土を越えたり突っかかったりで、

遠くから見ていたら、今のオフロードみたいだったと。

もちろん「不合格」だったそうですが、考えてみれば、試験官だって、

どれくらい運転できるのかわからない人の横には、乗りたかなかったでしょうね。

 

「いい時代だったよなぁ」と父自身が言ってました。父はその後ほかの免許も取ったわけですが、

大型の免許を取ったときは、教習所に車がなくてフォードのでっかいのを運転したそうな。

ま、アメ車は大きいからねぇ、大型っちゃぁ大型ですけどね。そんなわけで父は、大型特殊も大型二種も持っております。

昔、不景気で実家の自営の仕事がどうなるかなぁという時期があって、

母が「そのときは二人で働いたらええけど、ウチの年で働き口があるやろか」といったら、

父が「かーちゃんは家にいればいい、オレは大型トラックの運送でも、観光バスの運転でも何でもやれるから心配するな」

と言ったそうです。幸い、無事難局も乗り越え、いまだもってバスの運転はしないままですが、

おそらく、今でも乗れば大型バスでも動かすと思います。なにしろ60年のベテラン、カンも技術もすごいです。

父の仕事についていったこともありますが、フォークリフトでも何でも、チャッチャと勝手に動かしてました。

それを見ながら「技術は宝だ」…と思ってた私が免許を取ったのは42、ははは。

 

その父が、まだ医師から「車の運転」の許可が出ていません。今月の診察で、OK出ると思いますが、

父自身は、あと2~3年乗ったら、もう車は乗らない、といってます。

母もそうでしたが、人に迷惑をかけるようになったらいけないからと。

私が子供のころは、16で軽免がとれました。16歳になって「免許取りたい」といったら、

母が「オマエが車に乗るなんぞ世間さまの迷惑になるよってにアカン」…で、即刻却下。どーゆー意味やねん…。

息子が一生車いす、とわかってから必死で取ったわけですが、母は「取れてよかった」と喜んでくれてましたっけ。

取得のお祝いの言葉は「運転中のくわえタバコは10年早いで」…でした。

おかげさまで私も取得20年になろうかとしています。ははは、免許はあるんだけどねぇ…

ウチの車、今日バッテリーあがってんのよぉぉぉぉ。ほんっと「宝の持ち腐れ」…。

 

 

ミゼットアップ、ここは猫町3丁目、ミゼットは「猫町オート所有」です。

ミゼットってワイパー1本だったんですよ。

 

   


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4 コメント

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Unknown (陽花)
2011-06-16 14:23:54
免許更新来年でしたわ。
まだまだと思っていてもすぐですね。
娘たちはオートマ限定ですが、私が取った
当時の昭和54年は普通車でしたね。

昔は簡単に取れたんですね。
父も貨車の様な長~い車で帰ってくると、よく
近所の人がどうやってあの角を曲がったんやろ
と言っていました。
運動音痴、機械音痴でよく取ったなと今更ながら思います。


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今は... (akkomam)
2011-06-16 20:28:30
私が免許とることには父は頑として
許してくれませんでした。
事故などを起こしても賠償能力もない
ことが大きな理由だったような。
それで必要なときは兄弟が運転して
くれました。これは父の命令だったとか。

そして主人を亡くしたとき、子どもたちの
後押しでとりました。 

今は車は車庫に入っていますが、
娘がきたときに運転していますが、
私は2年後の更新はしないつもりです。
事故を起こしたときのことを考えると
保険に入っているから...だけでは
ないような年齢になるからです。

バスが走ったのも大きな理由ですね。
原付も動かしていませんね。
だんだんバス、タクシー、徒歩と
なってきました。

でも、頑張って免許を54歳で一回で
とれたことはいい経験でした。
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Unknown (とんぼ)
2011-06-16 21:31:29
陽花様

教習所は思い出したくないほどきつかったですね。
最初に「年齢かける10万かかる」なんて脅かされました。
半分ですみましたが、二度といやですわ。

大きな車や長ーい車に乗っている人を見ると尊敬します。
返信する
Unknown (とんぼ)
2011-06-16 21:36:43
akkomam様

私がはたちを過ぎてからも、母は「責任」ということを言って、
許しませんでした。
我が家の車は「仕事用」だからと、子供のころから言われていましたので、
載せてもらえなくても、送迎してもらえなくても、
全く気になりませんでしたし、どこへ行くのも公共交通機関でした。
結婚して夫が車を買ってからは、一生助手席をあたためるものと思っていましたが…。
息子のおかげで取れました。今も「責任」ということは思いますが、
今の暮らしではなくてはならないものです。

まだまだ引退は考えられませんが、
シニアマークつけて走りたくはないなーと思っています。
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