ほばーりんぐ・とと

ただの着物好きとんぼ、ウンチク・ズッコケ・着付けにコーデ、
あちこち飛んで勝手な思いを綴っています。

富士山・・・わかります?

2005-12-22 18:27:34 | つれづれ

ちょっとボケておりますが、富士山です。山頂近くに少し雲があるので
よけいにスッキリしていないのですが・・・。
これは、私の住む町の駅の近く、歩道橋の上から撮りました。

私の場合、3歳からこの町に住み、結婚して一時期離れまして、
18年ほど経って戻ってきました。あっ、二度目の「出戻り」ではありません。
今は元々住んでいた地域とは、駅をはさんで反対側に住んでいます。
元のところの方が、富士山はもう少しよく見えました。
ちょっと高台だったのか、庭から見えたのです。
それに当時はやたらとビルなどありませんでしたし・・。
右に見えるのは「大山」です。今の季節、空気が澄んでいるので、
大山の山肌の凹凸もわかります。夕焼けの時などもすごくきれいです。
少し曇りベースのときは、富士山はあっさりみえなくなり、
大山がシルエットのように見えるのですが、こうやって見ると
すぐ隣にならんでいるようなのに、富士山だけ見えなくなるのは
やっぱり、更に向こうにあるのだなーと当たり前のことに感心したりしています。

日本ではどこまで富士山が見えるか・・なんていう番組を見たことがあります。
富士山が見えるということで、町や通りなどに「富士見」と言う名前を
冠しているところは数多くあるそうですが、
私の住むところでも「富士見」という名前が残っています。
写真の左側の先にある商店街も「富士見通り」といいます。
東京にも「富士見」と言う名前はたくさんあるそうですが、
ビルや建物の林立で、実際に富士山が見える通りや坂は、
もう何箇所かしか残っていないそうです。
上の写真もなんとか真ん中に納めましたが、すぐ右には電信柱や、
大きな看板など、興ざめするものが写りこんでいます。
何十年か経ったら、この景色も見えなくなってしまうのかなぁ。

さて、富士山は「古富士」と呼ばれる火山の上に更に噴火したものが積もって
大きくなっていったものだそうですが、今でも活火山ですね。
コニーデ型、というそうですが、裾野が大きくひろがった、
こういうきれいな形の火山は、世界中でも数が少ないそうです。
とにかく近くへよればよるほど「美しい」山ですね。
信仰の対象になったのもうなずけます。昔の人は、日本で富士山が
一番高い山だ・・ということを知っていたとは思えないのですが、
たったひとつだけ、離れてそびえている・・というだけで「別格」と
思えたのかもしれません。富士山が信仰の対象になったのはすごーく昔。
浅間神社の社伝というのがあって、それによると弥生時代まで
さかのぼるそうです。その頃は、いわば地元の信仰対象ですね。

実は「信仰」というものを調べようとすると、これが実にややこしい。
日本は「神道」から始まって「仏教」を受け入れました。どちらも
すたれることなく、いろいろと絡み合う部分ももって定着していきましたから、
お寺に神様があったり、神社にお坊さんが関わっていたりで、
とても複雑なのです。元々「浅間信仰」という富士山の火山活動と関わる
信仰が生まれ、更に都のある西の方では「山岳信仰」が生まれ・・と、
あれこれ融合したり、新しいものが生まれたり、で単純に語れません。
最初に富士山信仰を開いたのは「役小角(えんのおづぬ)」と言われています。
多分に伝説的人物ですから、ほんとのところは・・だそうです。
あまりにも広大なので、私如きの浅知恵ではもうお手あげ・足あげ・サツマアゲ?
とりあえず私の大好きな「江戸時代」あたりのお話しをしましょう。

江戸時代に入ると「富士講」という講が盛んに行われるようになりました。
「講」と言うのは、組合というような団体、或いは宗教的な勉強会の仲間、
と言ったところでしょうか。「○○講」というのがいろいろありました。
金融関係だと「無尽」という講。古くは「頼母子講(たのもしこう)」とも
言われました。言ってみれば「金融関係の民間組合」、広辞苑では
「お互いに一定の掛け金をだしあって集め、定期的にくじ引きでそのお金を
『融通』する権利を得る」・・とあります。銀行や保険のなかった時代、
こういうことでお互いに助け合っていたんですね。
で、講というのは他にも宗教の勉強会のようなものを開くとか、
特定の神社仏閣に団体で参詣する・・といった会がありました。
当然その費用を「講」として積み立てて、出かけたわけです。
富士講もそのひとつです。もともとこの「富士講」の基礎を作ったのは
「角行」という行者が戦国時代の終わり頃、富士人穴というところで
荒修行をし、富士山に詣でることで悟りを開く・・といったような
新たなものを生み出した・・つまり「新興宗教」ですね。
で、かれの弟子などが、江戸の町でこの「富士さんへのお参り」の功徳を説き
人を集めて山に登るようになった・・と言うわけです。
歩いて行って、山に登って・・となれば、当然「宿泊」と言うことになります。
そこで「講」の人達の宿泊所が作られ、これが商売になる・・。
つまり角行の弟子たちは今の「旅行会社」であり、ツア・コンだったわけです。

われもわれもと大盛況だった富士講ですが、誰でもがカンタンに
行かれたワケではありません。さまざまな理由から、そんなに遠くまで
旅はできない・・という人もたくさんいました。
そこで考え出されたのが「富士塚」、広いところに土を持って小さな山を作り、
そこを富士に見立てて登るわけです。ちゃんと浅間神社の許可ももらって、
その山をてっぺんまで登れば、富士山に登ったと同じご利益がある・・
としたわけです。これも大流行したそうです。
幕府による禁止令もたびたび出たようですが(いつも思うのですが、幕府って
ほんとに『あれもだめ、これもやめなさい』とうるさいですね)、
なくなることはありませんでした。

ところで、私はまだ富士山に登ったことがありません。
五合目まではクルマで行かれますから、そこまでは行きましたが・・。
「富士山に二度登るバカ」と言う言葉がありますが、それは昔は
参道(つまり登山路)には、雲助とよばれるゴロツキがいたり、
なんだかんだとあちこちで「税」という形でお金をとったり
ご喜捨を強要したりで、いやな思いをすることがあったそうです。
それでも登ればご利益がある、でも二度とはごめんだ・・というわけで
「また行くのかい?およしよ」というところから「二度登る・・」と
言われたのだそうです。
一回も登ってないアタシって・・・。

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2 コメント

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富士山 (ちょうちょ)
2005-12-23 10:10:15
いいですね。

いつもみられるんですか?

私は、2年埼玉に住んでいたのですが、そのあいだ、富士山を見れたのは、残念ながら数回だけでした。



TB,ありがとうございます。
返信する
実は・・ (とんぼ)
2005-12-23 13:25:00
我が家の物干し台からも見えるんですよ。

ところが、元々通りをはさんで向かいの

2軒の家の間にはさまれて、せせこましい

富士山だったのが、その手前にビルが建ちまして

とても写真に撮る気になれない富士山です。

でも「見える」ってだけで、なんか嬉しいんです。

富士山の見え具合で、天気もわかりますしね。

いいもんです。
返信する

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