はじめまして「子とんぼ」です。親とんぼがいつもお世話になっております。
5年ほど前の写真です。
とんぼ製作のお祭りの「ダボシャツ・どんぶり・はっぴ」を着ております。
彼の視線の先には必ず「美人の若いおねーちゃん」がおりまして、
このときも、呼べど叫べどカメラ目線にはなってくれませんでした。
こーゆーところは「父親似か・・・」(オレは知らん・・チチのひとりごと)
さて、本日は続けて重苦しいお話で申し訳ありません。
まず質問です。
皆さんは「多目的トイレ」(かつて車イス用トイレと呼ばれていたあれです)を
どう思われますか?ちょっと抽象的な質問でしたね。
では・・・貴方が駅とかデパートなどでトイレに行きました、混んでいます、
ちょっと離れたところに「多目的トイレ」があります。
そちらを使いますか?使わない、と思った方、その理由は?
使うと思った方、その理由と使うとしたら、そのとき気をつけることは?
お答えくださいという意味じゃないんです。
実はこれ、今の日本の障害者福祉を考えるのに、一番わかりやすい問題なんです。
もう10年以上になりますか、国連の決めた「国際障害者年」というのが
けっこうなシゲキになりまして、日本でも福祉についての意識が少しですが
高まりました。大きな施設や駅に「多目的トイレ」ができ始めましたが、
最初は必ずといってもいいほどドアの近くに車イスのマークがついていて、
ご丁寧に「ここは障害者のためのトイレです。一般の方は一般用トイレを
ご利用ください」なんてぇ貼紙があったりしました。
私はそのとき、そういうことをあからさまに書くこと自体が、
実は「差別」の気持ちの表れなんだよなー、と思っていました。
これって、本人(行政)が善意でやっていると思い込んでるところが問題なんです。
たとえばベビーカーおしてるおかあさんとか、小さい子を何人も連れてる人とか
足元おぼつかなくて杖をついてるご老人とか、妊婦さんとか、
手すりがあったり広かったりするトイレのほうが安心して入れる人は、
障害者じゃなくたって使えばいいじゃないですか・・。
だから「車イス」のマークつけて、使用者限定することは、
障害者を守ってるつもりが、結局は線引きになってしまっているわけです。
これが何年かたつと、ちょっとかわってきました。
これは私が実際この眼でみたことがあるのですが、
あるトイレの「車イスマーク」があったと思われるところに
はがした跡があり、そこにプレートが貼ってありまして、そこには
「障害者のかたのほか、妊婦のかた、ご高齢のかたもお使いください」と・・・。
よくなったように見えたのですが・・・。
いつのまにか「車イス用トイレ」は「広域トイレ」になり、
今は「多目的トイレ」と呼ばれております。
この「多目的トイレ」についての検証番組を何回か見たことがあります。
最初の頃は、トイレまでの通路の確保とか、数の不足などの点が
指摘されていたのですが、だんだんトイレの数が増えてくると
揚げられる問題点も変わってきました。
先日見た番組では、設計が悪くて使いづらい・・・。
これは悲惨でした。電動車イスで入ると、便器の前で転回できない・・。
電動車イスは車輪は小さいのですが、バッテリーがつんであったり、
肘掛の先にコントローラーがついていて、わずかな出っ張りでも
通れない場合があるのです。
こんなページを見つけました。
多目的トイレについていろいろ書いてあります。
お時間ありましたら、ぜひ読んでいただきたいと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/wheel-net/2002/wheel-baby.htm
上のページでは、実際こういうことが困った・・というような
具体例のページにも飛べます。
お読みになればわかりますが、壁につけたフタをあけるようなタイプの
ベビーーベッドや子供を座らせるベビーシートをつけたところが出てきました。
これがジャマになったり、フタを開けっ放しでいったり・・。
また、中でエンエン着替えをする女性、、タバコを吸う場所に使う人・・・。
重複して書くのも・・と思いますので、カンタンに書きますと、
問題はふたつ、ひとつは「構造上・管理上」の問題、
もうひとつは「モラル・エチケット」の問題。
これのおかげで「これなら障害者専用のほうがよかった」になってしまいました。
まずは「構造・管理」について。
これについては、上のHPにもいろいろ書いてありますので、
私は私の気がついたことを・・・。
うちの息子も車イスですが、実はほとんどの多目的トイレに入っても、
便器は用がありません。身体的にも便器にすわれないのですが、
なにより知的障害のため、「便意」や「尿意」を知らせませんから、
出したくなれば勝手に出します。(ピロウなお話しですみません)
つまり、息子はずっと「オムツ」なのです。
息子と私にとって必要なのは、便器ではなく「オムツ交換のできる台」です。
障害者の中で、オムツ交換を自分でできない人には高齢者が多いし、
先天的に重度の障害者にも多いです。ところが、簡易ベッドや台のついている
多目的トイレはあまりありません。
私は息子との遠出には「新聞紙、ピクニックマット、バスタオル」の三点セットを
持参します。オムツ交換は多目的トイレの床に新聞を敷き、マットを敷き、
バスタオルを敷いた上で行います。新聞だけ捨てて、あとはまた持ち歩く・・・。
ベビーベッドなんかつけるなら、もう少し大きな板でもつけてくれればいい・・と
いつもそう思っています。ほかより広い床、それだけが頼りです。
先日テレビで見たトイレは確かに車イスで入れる大きさはありましたが、
横になってオムツ交換をするだけのスペースはありませんでした。
ハンデのある人のためのトイレは、便器に手すりがついていれば、
洗面台が低くて車イスの人でも手が洗いやすければ・・それだけではないのです。
そしてあの「オムツ交換のできるベビーベッド」、
あれをなぜ多目的トイレにつけるのか・・。
「多目的だから、障害者だけでなく、いろいろな状況を抱えた人のために」、
それはまた、根底に「障害者だけを特別扱いするようなことは差別になるから」
というものもあるのでしょう。
でも、ちょっと考えてみてください。確かに赤ちゃん連れと言うのは
何かとタイヘンです。ベビーカーで赤ちゃんと一緒のお母さん、
小さい子どもの手を引いているお母さんが一人でトイレの個室に入るとき、
自分の目の届かないところにいる子供のことはとても心配です。
そういうときには「多目的トイレ」は安心できる場所です。
でも「オムツ交換」はどうでしょう。ちょっと大きいデパートのトイレなどには
女性用トイレにベビーベッドがあったりします。
壁にとりつけて、パカッとフタをあけると台になる・・そういうものなら、
一般のトイレにつければいいことです。
それでなくとも「できるだけ何もないほうがいい」多目的トイレに、
なぜそれをつけるのか・・・。
あのフタをあけるスタイルのベビーベッドの横には、
たいがい「使用したら元に戻してください!!」なんて貼紙があります。
自分の使ったものの始末もできない人間が多いのです。
「そんなのちょっと忘れることだってあるわよ、車イスではいってきて
ちょっとジャマだったら、パンと閉めればすむことじゃない」
そう思う方もいるかもしれません。しかし、障害者、特に電動車イスのかたは
単に足が不自由というだけではなく、全身の筋力がない人もいます。
また半身マヒの人は、利き腕のほうにベッドがあれば閉められますが、
反対側だと閉められません。チッポケな「フタ」を元に戻すのが
たいへんな人もいるのです。それが「障害物」となってしまうのです。
フタひとつ閉められない、それがハンデなのです。
そんな余分なものをつけることを考えだす人、使ったものを片付けられない人、
一度自分の手足しばって車イスでトイレに入ってみてください。
私は、本来「多目的トイレ」そのものは、たいへんいいものだと思います。
しかし、今の日本では障害者ではなく、健常者が「使いこなせない」、
と言う点で「多目的」にはしてほしくない・・というのが本心です。
設計者、施工者、一般の人・・それらの人がきちんと「障害福祉」というものを
考えてくだされば、ほとんどの問題は解決するのです。
しかし、今の日本では、それはとても一朝一夕に変えられないと思います。
だから、イエス半分、ノー半分になってしまうのです。
女性が着替えのために使ったり、健常者が長々と使用したり・・・。
これはもう論外です。しかし昨今の日本、トイレのことだけでなく、
挨拶しない子供、人の庭に平気で空き缶を置いていく若者、
車の窓からゴミ捨てる大人、川原でゴルフをやる人、粗大ゴミを空き地に捨てる人
こんな状況では、基本的なところからやり直さなければ・・・。
単純にいってしまえば、昨今の「エチケット」だの「モラル」だのが
ティッシュのごとく薄くてへらへらの世の中では、多目的トイレが、
ただのトイレになってしまう、だったら最初の頃のように「障害者用トイレ」と
限定してくれたほうが安心、という哀しいことをいわなければならないのです。
みなさん、どこかで「多目的トイレ」をみかけたら、一度入ってみてください。
みたこともありませんが、障害の程度も
人それぞれで多目的トイレがあれば大丈夫
ということではなかったのですね。
私には理解出来ないくらいのご苦労を
されているのですね。
もっと利用される方の声を聞いてほしいと
つくづく思います。
リズミカルな音楽は子供達の感性を奮わせるようで、体でリズムをとるような子もいれば、静かに見てる子もいます。
こうした事をして、私はどれだけ彼らの力になっているのかは判りませんが、人間の根源的な生きる力のリズムと信じて一生懸命させてもらっています。
初めて伺った時に驚いたのは、お母さん方の明るい事でした。複雑な思いはそれぞれにあるでしょうけれど、みなさん我が子の為に頑張ってる様子が伺えて頼もしくも感じました。
むしろ、職員の方々が我々の事を気づかって、子供達を早く整列させようと躍起になってましたので、「時間はありますから大丈夫ですよ!」なんて言いながら、待機していた事もありました。
私も、日常生活の中で「いかがなものか」と、思う事がよくありますが、例えば私がよく行く、東京電力中山営業所!2カ所離れた感じで駐車場があります。それぞれに車椅子のマークが書いてあるスペースがありますが、明らかに身体障害者ではない人が駐車するのを何度も見かけてます。
片方の遠い方の場合なんか、東電へ来たのではなく、道路反対側のアパートの住人が自分の駐車場代わりに使っているようなのです。先日も東電の方へ言ったのですが、承知しているらしく「困っちゃうんですよね~」という位の感じでした。
あと、昔の話ですが、私が仕事で東京の武蔵小山辺りで目撃した事です。
横断歩道を渡ろうと立っていた母子がいたので、私は停車して「どうぞ」というようなサインを送りまして、彼女達は横断し始めたのですが、母親は四十代後半、息子さんはお母さんよりずいぶんと身長と体重もあるのですが、横断中にお母さんの頭をポカポカ殴ってるのです。私の目の前を通るお母さんは泣いてました。私は驚いて、息子さんはと見ると、精神的な身障者のようでした。私は胸が一杯になってしまって、これは親とか家族でなんとかする問題ではなくて、行政が援助するべき事だなあと思いました。
と言いましても、行政に訴えたところで、画一的な形でしか面倒見て貰えないんだろうとの思いもしたのです。
私も、助けてあげたいという気持ちがあっても、いざ具体的に何をしたら良いのかも判らず、あるいは、自分の生活苦で手一杯という気持ちもあるので、その時は、同情のもらい泣きして過ぎ去るしかなかったのですが、あの記憶は忘れられずに、時々うちの家でも話題に出たりしてます。
選挙権を行使するといっても、選ばれた人が実際どこまでするかは判らないですし、やはり、基本的には国民の意識向上をさせる為にも、学校教育を通して、身障者の事に限らず、弱者の為の社会作りの倫理、道徳観を強く根付かせなければならないのでしょうかね。
直接とんぼちゃんのお話しに対するコメントになってないし、支離滅裂な話でゴメンね!
私も、先程の駐車場の事ひとつとっても、どうして、そういう事をするの?という事をいつも思っていたから、ひとこと感想を述べさせてもらいました。
とんぼちゃん、ガンバだよ!
多目的トイレ Functional Restroom の表示。見かけるたび、ツッコミいれてます。
"What's kind of function?"って。(^^;
アイディア出して、試して、フィードバック
する物づくりのやり方、うまく生かされて
いないように思うのです。
こういった声を生かせるようにする仕組作り
ってないんでしょうか~
車椅子で生活する人の苦労は、一度、自分も車椅子で町を移動してみると、実感として捉えることもできますが、それでもこまごまとした困りごとは、一般の人々の想像できる範囲を超しているものですね。わたしのよく行くスーパーに、しょうがい者用トイレが設置してなかったので、店長に車椅子用トイレの設置をお願いしました。それに売り場の通路も車椅子では通れない狭さだったので、改善を求めました。売り場の通路は少し広くしてもらえましたが、まだ車椅子トイレは設置されていません。今度、店を改装するようなので、もう一度、元締めであるイオンお客様係に要望してみようと思います。うちの祖母は車椅子でなければ買い物もできませんから…当事者の声をどんどん設置者に届けましょう♪それが、自分たちが住みやすい町をつくるために必要な運動だと思います。
それどころか幼児虐待、子の親殺しなど
痛ましい事件が多すぎです
豊かになった分失われた物が多すぎです
我々の子供時分の昭和30年代の程よい
貧しさが懐かしいです
さて私は、私一人の力では行政を動かす事などなかなか・・・
声高に叫ばなくても
出来る事を少しでもと思いでいます
新幹線でも席をゆずる私はバス内ではあたりまえ
それに公園でゴミをちらかす子には必ず注意
目やお足の不自由な方のサポート
それにイジメに対しても毅然と
忘れられない思い出にこうゆう事が
有る日自転車で街を
そこに2~3人の男の子が
ダウン性の子を・・・
「こらまたんかい、おまえらそんな事して
学校でなに教えてもらってんのや、二度といじめたら承知せんど!」
あまりにも突然の事で子供達は・・・
帰りぎは、その子に
「気ー付けてお帰りや」と言うと
「おばちゃん、ありがとう 」と
いまでもその光景が
これからも
おおいなる、おせっかいおばさんしていくつもりです
母が十数年前に初めて脳梗塞の発作を起こしてほぼ半身不随となりました。まけん気の強い彼女は、リハビリで医者もびっくりの驚異的な回復を遂げたのですが、以来発作を起こすたびにまた戻ってしまう。その繰り返しです。母が自分で体を動かすことができなくなってから、指一本動かすことが、日常の小さな動作がどれだけ大変なことなのか、痛感しました。その上父がガンで入院したのでしばらくは大変でした。やっと落ち着きましたが、これからどうやって介護していこうかと考えた時、東京へ連れてくるべきか否かで随分悩みました。
うちの両親は自宅ではなんとか家事をこなせますが、母は短時間でも動くと疲れてしまい、外へでるには車椅子がいります。全てをこなすことは無理なのです。田舎にある介護の「施設」(この呼称やめてほしい)に行くと、こういうちょっとサポートがいる、という人々のための場所はほとんどありません。東京には「健常者」とか(この呼称もやめてほしい)ちょっとサポート要の人々のためのレジデンスがある。かくして東京にお引越しようかと話したわけですが、よくよく考えてみると、二人にとっては田舎にいるほうが楽しいし、楽なんじゃないかと。東京にはおしゃべりするお友達もいないしこもりきりにならないか、田舎と違って移動の大変さは比較にならないー車とめるとこないし、ほとんどの駅はいまだに階段だし―、この東京で何か起こった時に誰か助けてくれるだろうか、誰かにつきとばされたり、イジワルされたりしたらどうしようと、不安がつきないのです。結局、姉夫婦と孫達と、みんなでサポートしていまのところはなんとかお家でがんばっています。
トイレの話。もう幾たび官公庁、スーパー、デパート、駅、ビルのオーナー会社に手紙を書き、電話でお願いし、ひどい場合には噛み付いたかわからないです。母と一緒に外出するたび、おっしゃるとおりあの多目的トイレをはじめ、様々なハードルにでくわす。小さな段差や無理な角度で簡単に転ぶ。トイレは使えない場合も多いのでオムツにするわけだけど、母はオムツが嫌だという。母の矜持、しかしこの矜持あってこそ今までつらいリハビリをがんばって、自分で動けるようになった。だから使えるトイレにしてくれって頼みました。こういうトイレのせいで、気がなえるんですっていうんです。母はそんなことをいうなと怒るのですが、こんなこと我慢するなんて冗談じゃないし、これから母のようなお年寄りが急速に増える。自分だっていつどうなるかわからない。動かすしかないですね。ちゃんと対応してくださったところもすくなくないのです。私も言い続けます。とんぼさんも、がんばってくださいね。
陽花様 千兵衛様 ぶりねぇ様 因幡のりさこ様
てっちゃん様 百福様
コメントありがとうございます。
まとめてのご返事ですみません。お許しください。
皆様のさまざまな思い、励まし、本当にありがとうございます。また、ご自身がご家族のことで実際に不快な思いをなさっていることを伺い「障害福祉」と「高齢福祉」、結局突き詰めていけば同じ問題なのだという思いを強くしました。
何かつらい場面を見たり聞いたりしたときに「なんてこった」と感じることのできる心をもち、時には「そりゃいかんだろ」「こうしてちょーだいよ」という声をあげる、ここへいらっしゃる皆様が、そういう「ごく普通のとてもステキなかたがた」であること、とんぼにとっては大きなシアワセです。正直、ここ2日は着物のお話ではなかったので、つまんないかな・・と思っておりました。こんなに沢山の、長い長いコメントにこめられた皆様の心、とってもあったかく頼もしく感じました。ありがとうございました。
誰しもが年をとります。また、考えたくはないことですが、人間明日のことはわかりません。医学の発達で命は助かってもハンデを持つという生活が、自分や周囲に起こらないとは誰もいえません。助かった命を大切にするためにも「生きててよかった」と思えるような暮らしができるように、そんなことを忘れないように、私にできることを考えていきたいとおもっています。自分のことはみんなのこと、みんなのことは、自分のこと・・なのですよね。
本日、もう一回「福祉」について書かせていただきます。