手持ちの古布で、きちんと髪型がわかる柄がありませんでしたので、
今日は「絵」、これは「芦屋堀萬昭堂」さんというお店で買い求めた
「カレンダーつき和風クリスマスカード」の中のイラストです。
著作権等の問題ありましたら、先にお詫び申し上げます。ご一報下さい。
昨日は「再び髪を結うようになった」「前髪、鬢、髱、元結から先、
の4つが基本」といったお話しを致しました。
さて、今日はどういう具合にお話しを進めようかと悩みました。
江戸に入ってからの髪型をひとつひとつ説明していたら何日かかるか・・。
第一、そんなにぜんぶはわからないし・・。で、個別の髪型そのものよりも、
ダーッと全部見渡してみて・・という感じで書いてみようと思います。
上の写真(絵)の髪型は「丸髷(まるまげ)」です。歌麿の美人画は、
ほとんどがこの髪型といわれます。元は「遊女」の髪型。
特徴として、元結から先の髷がとても大きく高くひろがっていること、
もうひとつは「燈籠(とうろう)鬢」といわれる、薄いつくりの鬢、
向こうが見えそうなほど薄く髪をとって鬢を大きく横に張っています。
こういう具合に大きく張り出すときは、鯨のひげなどで作った「鬢張り」という
道具を使って形を整えます。さてこの丸髷、原型は「勝山髷」という髷で
違いは「勝山」の方は、てっぺんの髪を丸くひろげず、
髪油でピタッとまとめて細く仕上げていました。また「髱(つと)」は
「鶺鴒(せきれい)づと」と言われる鶺鴒の尾のように、
後ろに細く長くそりあがった形でした。鬢も小さめです。
<ここでひとつ訂正です。以前「髱」の言い方を、上方は「たぼ」江戸は「つと」
と書いてしまったような・・、あとで確認いたします。今思い出しまして・・。
上方が「つと」江戸が「たぼ」です。>
この勝山は丸髷となり「粋」を誇りましたが、やがてはてっぺんが丸いまま
小さく低くなり、鬢も普通の大きさになって後年は「主婦の髪型の代表」と
なっていきました。
こんな風に、300はある・・といわれる髪型ですが、元をたどっていくと・・
結局基本は「兵庫」「先笄(さっこう)」「島田」「勝山」(順は不同)の
4種、といわれています。
「兵庫」というのはその名のとおり今の兵庫県は但馬の遊女が始めたと
いわれるもので、昨日書きました「前髪別に、鬢とツトは小さく
ポニーテールをして、たてに輪をつくり、残りは根元にグルグル」の形。
これが、鬢やツトを広げたり膨らませせたり、輪を寝かせたり真ん中で分けて
両方に輪を広げたり・・・と、まぁいろいろ変化して、最終的には
今でもお芝居などで見られる「花魁」の髪型として残りました。
「先笄」は、元は御殿女中のもの、笄を寝かせて、それに髪を巻きつける・・
という形ですが、まずは御殿の中から外へ出て庶民が結うようになり、
この巻き付け方もいろいろ考え出され、更に巻きつけた残りを
どうするか、でまた増えていったわけです。
「島田」は元は若衆髷、これも島田宿の遊女がアレンジしてこれを考え出し、
結局江戸後期には「娘島田」という未婚女性の定番スタイルになっていきます。
下の絵がそうですが、鬢の後ろ下にちょろっと見える細い髪が特徴です。
お公家さんたちの女性は、だいぶがんばって垂髪でおりましたが、
やがて「結う」ようになりました。
そうそう「おすべらかし」ですが、元はただそのまま伸ばしただけ、でしたが
やがて時代が下がるとともに、前髪をとり、鬢を大きく高くあげて、
あとはうしろにまとめて元結や水引をかけるようになりました。
そうですあの「お雛様」の髪型ですね。昔ほど長くしなくなったので、
結うときには「かもじ」も使うようになりました。
ですから今の「おすべらかし」というのは「皇室の式典」で結われるあれです。
御殿女中の髪型で有名なのは「片はずし」これも、笄を使った髷ですが
これは笄を抜くと「垂髪」になります。どこまでも基本は守った?
こんな風に、元々そのまま垂らしていた髪を「ポニーテール」にして
そこから先を考えた・・・というたったひとつの「髪型改革」が、
何百という髪型に発展したわけです。「髪を上げた」ということは
本当に画期的なことだったんですね。
それと同時に、髪を結うことで「簪」「笄」というものが必要になり、
高価なものからリーズナブルなものまで、さまざまな素材で
細かい細工のものが作られるようになっていったわけです。
この「細工」という仕事は、器用な日本人にとってはまさに
うってつけの作業だったことでしょう。
よく時代劇に「細工師イコール鍵師」で、蔵破りの名手、なんて設定があります。
あながちウソではなかったような気がします。
髪型の発達に合わせて、髪を飾るものの文化も発展していったわけですね。
モノの本によれば、帯幅が広がったのは、元禄時代に南蛮の宣教師が、
腰に丸組の紐をグルグルと段に巻いて「幅」をもたせてしめていたのをまねして
細縄紐をグルグルと腰に巻き幅広く締めた、これが地名を取って「名護屋帯」と
称された(今の名古屋帯とは別物です)。実はこれはもともと胴長短足である
日本人にとって「かっこよく」見える方法であったため、
その後帯の幅はだんだん広くなった・・とあります。
でも帯幅が広がった理由はひとつではないはずだと思えるのです。
着物の変化としては、安土桃山あたりから「袖と丈が長くなっていった」のですが
ただ着物の丈だけがいきなりかわったわけではなく、
また帯が「胴長短足」を目だたなくさせるという目的のみで流行ったわけではなく
華やかさとか着心地とかそういうこととあわせて「髪を結う」ことで、
例えばうなじを見せることが始まり衿を抜くようになる・・衿を抜くと、
対丈の着物では前があがってしまう、ついでのことに衿を抜くと
細帯で腰辺りを締めていたのでは、胸元がはだける、
そういうあれこれも、影響したと思います。
やはり、何かひとつだけではなく、いろいろなものがいろいろに絡みあって、
くんずほぐれつ??してこれだけのものを生み出してきたのだと、
私には思えるのです。
いずれにしても、こんな風に古い事柄をいろいろと見ていくと、
今、着物が廃れてしまっていることが残念でならないのです。
確かに今の時代、洋装の方が暮らしやすいとは思います。
でも視点を変えてみると、いまやほとんどが「イスとテーブル」の生活、
家事の道具はほとんど電化され雑巾掛けも、タライに洗濯板の洗濯もありません。
井戸から水をはこばなくても、蛇口ひねれば水はでる、
かまどなんて見るのも珍しく、スイッチポンでご飯はたける・・
昔の人は毎日着物で掃除や洗濯、かまどの火で炊事、とやっていたんです。
今の方がよっぽどラクに着物でいられるとおもうんですが・・。
ほんの少し前、父親は「背広」で仕事から帰ってくると、
靴下に「どてら・丹前」というスタイルで、ちゃぶ台の向こうにあぐらをかいて
座りました。その襟元からは「丸首のメリヤスシャツ」が見えている。
それでも、おかしくはなかったと思います。そういう「和洋折衷」の時期が
あまりにも短く、一気に全部洋装・・になってしまったことが、
着物をどうやって残していくか、を考える時間を持たせてくれなかった、
ということなのではないかと・・。
今日は髪型の話しから少しそれてしまいました。
このテのおはなしは、また別のテーマとして書きましょう。
日本画家の上村松園の画帳を見たことありますが、髪型のスケッチが沢山ありました。
彼女の随筆「青眉抄」に、失われ行く日本髪の女性を、今の間に書き留めるのとありました。 これ、明治時代のお話です。
私も松園さん、大好きです。
世の中がどんどん変わって、洋髪もでてきて・・
危機感を覚えたのかもしれませんね。
よくぞ描き残してくだされた・・です。
島田なども良いのですが、ぜひナマで見たいのは横兵庫ですね。歌舞伎で傾城八ッ橋などが結っている髪です。まぁ横兵庫は最高位の太夫の格なんでしょうけど。浅草にミニチュアのかつらがありましたが、3万円を超えていました。
私、実は遊郭に大変興味があります。タイムマシンが出来たら”いの一番”に吉原・仲ノ町へいきます!遊郭の文化は断片的に花柳界にも残っているようです。ぽっくり下駄は振袖新造や禿が履いていた下駄ですし、舞妓さんが結っている「割れしのぶ」も遊女が結っていた髪型だそうですが、これは”客が来ぬ夜を耐え忍ぶ”といって後に遊女は誰も結わなくなったそうです。
ところで、はとバスツアーで大人気だった「花魁ショー」を廃止させた女性都議さんは、その後どうしているのでしょうね?あの方は着物に対しても否定的だったですからね、身八つ口は男性のためにあるから閉じさせろだの、着物の構造は女性を軟禁するためのものだから廃止させろとか言ってましたが・・・おかげで吉原太夫の文化を細々と継承させていた店が無くなってしまいました。
さまざま華やかな髷が少しずつ庶民的になっておとなしい髪型になったのに反して横兵庫は、元々よりはるかに華やかになったまま残った髪型です。今は京都の観光ショーしかありませんかねぇ。私も一度ホンモノを見てみたいです。京都の「日本髪資料館」はご存知ですか?カツラだけでも見たいと思ってます。
かの女性都議さんは、きっとお小さい時に着物でイヤな思いをしたのがトラウマになってんですよ。親に「着物着せてもちっとも似合わないんだから」とか「成人式の振袖なんかもったいないからやめろ」とかいわれたんですねぇ・・。トラウマってこわいですねぇオキノドクに・・!