写真は見ればわかる「記念写真」…場所もいわなくてもわかる「長崎平和祈念像」。
ここが最初の見学場所だったんです。
昨日の記事から引っ張りまして…私の高校の修学旅行は、九州一周でした。
2007年のブログに「駅弁」のお話で一度書いていますので、再放送?
当時新幹線はすでに開業していましたが、まだまだ「修学旅行列車」というのがありまして、
私たちはそれで行きました。当日は早朝に横浜駅、東口集合でした。だだっぴろい広場で、
われわれ総勢300名以上の団体が並んでも、まだまだすみっこの方にチマッという感じでしたね。
時間になると「団体専用通路」が開かれ、そこからぞろぞろとホームに行きました。
なんか貨物の倉庫みたいなとこのそばで「あたしたちも荷物扱いだねぇ」なんていいながら歩きました。
修学旅行専用列車は一車両に出入り口がひとつだけ、1分だか2分だかの停車時間内に、
女の子300人以上が乗るわけですから、前もって「とにかく速やかに乗車するように」と注意もありました。
そのときがくると…先生方は必死で「何でもいいから早く乗れーっ!つめろーっ!おしこめぇ~~~っ!」と絶叫し、
私たちはキャーキャー言いながら、大きな荷物を持って狭い通路になだれこみました。
列車がガタンと動き出すととすぐに担任がゼーゼー言いながら入ってきて
「みんな乗ったか?駅に忘れてきたヤツはいないか?」やっぱ荷物扱いだわ…。
私は当時、クラス委員をやっていましたので、こんな資料もとってありました。今はない2等寝台、割り当て表です。
三段寝台で、私は最上段でしたわ。
今改めて日程表を見ると、なんと強行軍なことか…
クリックで「大サイズ」に飛びます。
たくさんの思い出を積み重ねてくれたあの旅の出発点、横浜駅の東口、
わくわくする時をすごした、あの広くてクラシカルな駅舎はもうありません。
横浜駅は、生き物の成長のように「これで完成」がなくて、いついっても工事中。
発展はダイジかもしれませんが、私は昔の横浜駅東口の方がずっとずっと好きでした。
昔の東口、やっと写真を見つけました。このころから最後の解体に入っていたんですね。
上の写真の歩道橋とか通路のようなものは、工事用の仮設。
これがなんにもない、広い広いロータリーだったんです。
写真の「大時計」は、今も「市電保存館」にあると聞いたことがあります。
私の青春時代の前後、横浜駅は「西口」の方がどんどん開発されて、大手のデパートもみんな西口、
ダイヤモンド地下街とか、ちょっとあやしい西口五番街とか名店街とか、いつ行っても人でごった返していました。
それに比べて東口は、確かに人はいるものの乗り物の乗降のためだけの人ばかり。
これといった商店街もなく、バス乗り場やタクシー乗り場がつらなり、
広いロータリーと道路をはさんだ向こうに、やっとスカイビルというのができたのが、私が高校生のころ。
当時は最上階に全回転式の展望レストランがありました。
いまや東口とつながり「ヨコハマ・スカイ」などというシャレた高層ビルになっております。
このほかには、東口を出てすぐ右隣に「横浜中央郵便局」、その左に「崎陽軒」、ここは今でもあります。
あとはみんな「会社のビル」ばかり。なにしろすぐ目の前が港ですから、海運関係の建物が中心で、
味も素っ気もない…それが東口でした。
それでも横浜駅は本来東口がメイン。だから西口は、わざわざ「横浜駅西口」と呼ばれたのです。
昔は…あのころは…と言い始めると、年取った証拠だそうですが、
あの建物はただ懐かしいだけでなく「人間の匂い」みたいなものがあったように思います。
広くてムダに高い天井は効率の悪い建物だったかもしれません。
それでも 人がありんこのように小さく見える、あのだだっぴろい空間は、
横浜という港町の、大きな入り口の象徴ではなかったかと思うのです。
なかなか出かけられない私は、すでに横浜駅周辺では「浦島太郎症候群」ですが、
ただ、長くいっていないというだけでなく、姿かたちのかわりようが、よその町になってしまったようで、
ちょっと寂しいのです。
寂しい私の気持ちを映して??いえいえ単にカメラのテストですが、一眼レフの威力でしょうか。
とりあえずパシャッと撮って、ここまで映りました。三脚未使用のためブレてますが。
地下はほんとにダメですわ。
表示があってもたいがい不親切だし。
磁石持って歩くようだとか、今はナンタラナビとか、
何もナシでは歩けませんね。
地下に入ったら 駄目です。
曲がり角のお店もドンドン変わって
目印になりませんもの。
街中では 多少の暑さや雨なら
地下から地上に出て歩きます。
ほんっとにいつ行っても工事でしたねぇ。
今でもすんなりいかれるのは高島屋だけ…。
なんだかいろんなビルができて、知っていたビルはなくなって…。
東横線は、昔、駅ビルの二階の小さな改札口から乗れたのに、
今はそれもないどころか「地下?」
それでなくとも地下ってのは周りが見えないから、
方向もわかんなくなるんですよ。
近いうちに、横浜の西口ではありますが、五番街を抜けた向こうに
行かねばならないんですが、父が心配して、
地図をプリントアウトして持っていけと…。
いらないわよ、といえなかった自分が悲しい…。
上記のコメントはわたしめです
(えぇっと 誰としたっけ???)
昔の横浜駅の写真が懐かしい。
高島屋かそごう以外 カタカナビルは
何度聞いても覚えられないというか
覚える気が無く・・・
いつもいつも 駅構内が工事中だった横浜
どこもかしこも変わってしまって
行く度に???マークが飛び交います。
修学旅行から帰ってきて、「旅行記念アルバム」を作ったんです。
いつものことですが、途中であきて、中の文章が清書していないという、
私らしい中途半端です。
また横浜においでください。そのときまでにちゃんと、
駅構内地図、覚えておきますし…。
女二人で、山手など歩きましょうぞ…地図もって。
はじめまして。コメントありがとうございます。
外国で暮らしておられると、懐かしさもひとしおかと思います。
私もいつも里帰りは車でしたので、実家の近くにようやく引越してきて、
さぁ久しぶりに電車で横浜に行ってみたら…
「ここどこ、私の行きたいとこはどっち…」で、ハマっ子が横浜駅で道を尋ねるという、
情けないことになりました。
父などは「あれは駅ではない、すでに町だ」と申します。
ほんとにすごい変わりようですねぇ。
残しておられるから、こうして当時を
振り返る事も出来るんですね。
横浜は4年前に一度だけ行きましたが、
一度も行っていない時は想像も出来ません
でしたが、ちょっとでも見ると何となく
分かるのがやっぱり嬉しいですね。
月の写真くぼみまで写っていてスゴイです。
横浜駅・・・本当にすごく変わりましたよね。
いつも東と西、どっちがどっちか分からなくて「そごう側」「高島屋側」と呼んでましたが(笑)
東口は車で迎えに来てもらう場所だったな、私にとって・・・なんて、懐かしく読みました。
実は私は海外生活が11年になろうというところで、最後に横浜駅に行ったのは2年前の帰国時。
もうさっぱり訳分からん・・・でした。日本語読めてよかった(笑)
今では人ごみが苦手で、昔はあの辺を普通に歩いてたのが信じられないです。すっかり田舎者になってます。それとも年をとった証拠?(苦笑)