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今、これを書いているのはお昼すぎです。
あの日の今頃、まさかこんなことになるとは何も知らず(アタリマエですが)、
昼食の後片付けをのーんびりやっていました。
でも夕食時間には、もうテレビの前を動けなくなると同時に、時々くる余震におびえていましたっけ。
あれから2年です。
震災の日が近くなるにしたがって、テレビでは「忘れちゃいけない」と、さまざまな放送が始まりました。
できるだけ見るようにしました。人間は「喉元すぎれば」という習性があります。
「忘れる」ということは、生きていくうえで大切な機能なのだそうです。
全部なにもかもしっかり覚えていたら、人格がパンクするだろうと…。
それはよくわかります。でも「忘れちゃいけないこと」は、ちゃんとあります。
あの日のこと、あのあとのこと…やっぱり、しっかり忘れずにいよう、思い出そうと思います。
テレビで復旧だの復興だのという、明るいニュースも時にながれますが、まったく反対のところもあります。
ミクシニュースで、仮設住宅でのDVや児童虐待なども増えている…とありました。
あらゆることを並べて、明と暗なら、暗の方が割合は多いだろうと、そんな気がしています。
震災だけではなく、福島の廃炉は40年かかる…私100歳越えます。
長い目で見れば、今回の震災や原発事故は、1000年後には「この年、こうだった」という
たった数行の記載で終わる…それが歴史なのでしょう。
だからこそ、その時、同じ時代を生きた私たちはそこから学ぶ、ということが大事だと思うのです。
あの時、思わぬ「買占め騒動」に、買い物においそれとはいけない私は窮地に立たされました。
親はなんとかなりますが、介護食の息子はその日から食べられなくなります。
私のSOSに、本当にたくさんの方から、どんどんと品物が届きました。
まだなんとか動いていた宅配便で、北から南から、たくさん送っていただきました。
今でも、あの時玄関で受け取るたびに、箱を開けて涙こぼして手を合わせていたことを思い出します。
たくさんのお見舞いメールや物資、あのときは本当にありがとうございました。
私はあれ以来、以前よりずっと「防災」ということを考えるようになりました。
のんきな私は、なんでもすぐ忘れるし、緊張の糸もすぐ切れます。
それでも、防災に関してだけは、今でも備蓄食料をチェツクし、時々防災用品を調べ、
生協やネットの防災用品は「新しいものがないかどうか」よーく見るようになりました。
あの時、計画停電が数回でしたが行なわれました。
そのとき使おうとした「防災用ラジオ」があまりに小さくて、
懐中電灯を当てても字が読めない、スイッチが小さすぎて押せない…。
父に大きいものをもらい、ちゃんと見て「ここがスイッチ」「ここが周波数」と、何度も使ってみました。
ストーブも、電気を使わない昔ながらのものを買いました。狭い家には大きな荷物ですが、
いつでも使えるように、リビング脇の戸棚にいれてあります。七輪も燃料も揃っています。
知人の中には笑うヒトもいましたけれど、そもそも防災用品なんて「使わないのがシアワセ」なのです。
ほこりかぶって、毎年中身点検しながら「今年も用がなかったねぇ」といえるのがいいのです。
実父は、明治の終わりの生まれでしたから、関東大震災を経験しています。
まだ12歳くらい、それでも記憶はしっかり残っていたのでしょう、異様な地震嫌いでした。
ちょっと揺れても、妻子放り出して逃げ出した、と母が笑っていました。
そのあとで必死で戻ってはきたそうですが、一番震えていたと…。
百聞は一見にしかず、経験はなにより強い「知識」です。
それがない私は、想像するしかありません。
幸いにも、と言っては被災者と犠牲者の方々にはたいへん失礼ですが、
メディアのおかげで、ビルまで揺れる現場や、恐ろしい津波や、原発の様子を画像で見ることが出来ました。
横浜のビルの角が地割れして、地面が手をすり合わせるように動く…あれは私も知っている場所でした。
「映画じゃない、これは映画じゃないんだ」と何度も思いながら見ました。
実体験ではなくとも、確かに私はあの時同じ町にいました。ここはまだマシだったのだと心底思いました。
今、春をやっと迎えて、花の色に喜んではいますが、花粉に黄砂にPM2.5、昨日は煙霧なんてものがきて…
実際には放射能だって、このアタリには昔より多くきているのだろうと思っています。
自然が運んでくるものは、人間の力ではどうにもならないことがたくさんあります。
せめて、準備できることはやっておこう、と思います。
支援に関しても、動けない私には限りがありますが、小さなことからコツコツと…と思います。
「防災」、万が一のときのためだからこそ、そのときでは間に合わないのですよね。
トップ写真は、暖かさで一気に開いたプリムローズ、せめて犠牲者の方にと…。
遠く離れているこちらでもめまいを起こしたのかと間違うほどの揺れとテレビに映る大津波、現実に起きている事だと信じられないぐらいの光景でした。テレビに向かって早く早く逃げて!と叫んでいました。
いまだに頻繁に起きている地震に早く終息してほしい、一日も早い復興をと願わずにはいられません。
本当に色々なことがありました。
昔、東北の田舎から関西の大学に進学で家を離れるとき関東大震災を経験した祖父は懐中電灯を選別だと渡してくれて「関西は地震がないと思っているかもしれないが昔大きな地震があった。懐中電灯は常に準備して1年に1回は電池を取り換えなさい」と言われました。
今にしてその意味がよくわかりました。
あれ以来、地震には敏感になってます。
あの「緊急地震速報」は、最近はめったに鳴りませんが、
あのころは毎日何回も鳴っていました。
ちっとも進まない復興、雪も多くて、
今年は特に大変だったと思います。
早くなんとか少しでも…と思いますねぇ。
京都の親戚が、こちらにきていたとき、
たまたまちょっと揺れました、まぁ2くらい?
それでも怖い怖いと、騒いでいました。
あの阪神のときは、どれだけ怖かったことでしょうね。
備えあれば…といいますが、ホントだと思います。
我が家には、いつもキッチンカウンターに
大きなろうそくとライターが置いてあり、
息子のそばにカンテラが置いてあります。
暗いと言うだけで、怖いものですから。
まだなんにも落ち着かない北国、じれったい!
日本はどうなっていくんでしょうねぇ。