今日は、別に書くことがあったのですが、あんまり腹が立ったので…。
それは、今日放送された「大学駅伝」でのことです。
先頭の選手が白バイに先導され、審判車を従えて必死に走っていると、
ガードレールの途切れたところに黒いジャージの上下を着て、鉢巻のようなものをした若い男が二人。
選手が通り過ぎるのにあわせて、口に手を当て、何か大声で怒鳴っています。
一瞬、同じ部の部員で「後ろからきてるぞー」とかなんかそういうことを知らせているのかと思いました。
それは時々見かけますよね。ところがその男はそのまま何か言いながら選手の後ろについて走り出しました。
熱心なファン…ではありません。テレビに写るとわかっているのでしょう、ニタニタ笑いながらです。
沿道の人達は、向うから来るのだからわかりません。ひとりガードマンが気がついて
袖をつかんで戻そうとしましたが振り切られました。ずいぶん長い距離走ってましたよ。
審判車が「危ないから歩道に上がりなさい」「離れなさい」と何度も言ったのですが無視。
だれかタックルしてでも止めなさいよ…と思っていたのですが、結局「放送側」もまずいと思ったのかなんなのか、
突然、別の選手の画面に切り替わってしまいました。
審判車のヒトも、眠たい声で注意してないで、窓から顔出して「レース妨害で警察呼びますよ」とでも言って、
それこそケータイでパシャパシャ撮ってやりゃよかったんです。
マラソンはただ走ってりゃいいってもんじゃありません。駅伝となれば「たすき」がかかっています。
時間配分、ペース配分、後ろとの差、自分の今の状態、スパートのタイミング…アタマ使って走っているのです。
よく「沿道の応援がよく聞こえる」といいます。家族が見えたり応援の声が聞こえると、また元気が出るそうです。
それなのに、うしろから誰か来る、そんなに詰められていないはずなのに、とも思うかもしれないし、
なによりその間、集中力も途切れるでしょう。
スポーツは、それに興味のないヒトには選手の名前もその記録も順位も、どうでもいいことかもしれません。
でも、それをやっている当人たちは、この日のために毎日毎日体を鍛え、苦しい練習をし、
メンバーに入るかはいれないかで一喜一憂し、学校の名前をしょって闘っています。
あんな苦しいこと、頼まれたってイヤですが、だからこそ旗を振って「がんばれ」と声をかけるんじゃありませんか。
真剣に闘っているヒトに、おちゃらけを仕掛ける「あんたそれでも、おんなじ男か!」と、
思わずテレビに向かって怒鳴ってしまいました。
あのあとどうなったのかわかりませんが、なんだかとても気分が悪かったです。
イタズラは大人になってもやります。でも、何にでも「限度がある」ということを踏まえてのことです。
今夏、夫を驚かそうとバカでかい落とし穴を掘って、あげく埋まって死んでしまった事件がありましたね。
これ以上は道を外れる、やりすぎ、命に関わる…そういうことを、なぜ考えられないのでしょう。
越えてはいけない「限度の線」を考えることのできない人間は、子供より未熟です。
昨日、久しぶりに「多摩川の河川敷バーベキュー」問題を取り上げていました。
川崎市は500円の入場料を取るようになり、場所も限定しました。それでずいぶんよくなったそうです。
情けないハナシですよね。「限度」を越えることの無礼さや、危険を考えられない一部の人間のために、
お金払って自然を楽しまなきゃならない…。
歩きながらケータイも、あのブレーキなし自転車も、限度、という当たり前が考えられない。
自分がしたいようにしたいことをする…それですみゃ「警察はいらない」です。
せめて、トップ写真はかわいいものを…。
もう気温も下がって育たなくなったので、万願寺を切りました。
最後についていた小さな実と花を飾りました。夏中、ありがとね。
矢印のところに実があります。かわいいでしょ。
それは自由とか平等を唱える戦後教育の弊害だと心底思います。
という私は戦後も戦後バブルも体験した世代なんですが(ーー;)
自由には責任が伴い、平等とは権利だけでなく義務もあるのが、わかってないのだとつくづく感じます。
今の、まだユルい格差社会がもっと進んでそのうち身分制度が戻って来てもそれでいいのではないか、などと黒いことを考える私。。。
せっかく手にしたものを、手放す羽目になる事態。持ちきれなかった日本人よ、さらば~情けないですね。
人とはなんと愚かな生き物なのか、と考えると思いっきり暗くなるので、せめて美しいものが見たいですね(^^)
とんぼさんのブログ、いつも楽しみにしています。(2度目の投稿になります)
「今夏、夫を驚かそうとバカでかい落とし穴を掘って、あげく埋まって死んでしまった事件がありましたね。
これ以上は道を外れる、やりすぎ、命に関わる…そういうことを、なぜ考えられないのでしょう。」
この事故は、私の住んでいる県でおこったことで、おそらく全国版よりも大きく取り上げられていたと思います。
私も家族と「バカだなぁ」ってあきれかえっていました。
その後、世間は狭いもので、亡くなられた穴を掘った奥さんが、親しい年下の友人の娘さんとわかり、言葉を失ってしまいました。
ちょうど事故の少し前に同窓会があって、亡くなった奥さんのお母さん(私の友達の同級生)がうれしそうに「娘が結婚したんだよ」って写真わ見せてくれたって。
それが一転して、お葬式です。
本当に愚かですよね。
ニュースって、自分に関係ないところでは、冷静に時には無責任に批判・反省できるのですが、当事者・近親者にとっては、おそらく「なんで」と哀しみばかりだと思います。
私もとんぼさんと全く同意見です。
でも、もしかしたら、この愚かさはいつでも日常の中、紙一重のところに落とし穴のようにひそんでいるのではないかと、感じた出来事でした。
常識的に普通に考えて、まずそんなバカなことはしないと思うのですが、それでも、人のあやうさに不安を感じました。
長くなってすみません。
昔の親は「何が当たり前か」を教えましたね。
いい学校に入ることよりも、出世するよりも、世間様に迷惑をかけるな…と、
いつも言われていました。
今の親は、子供にものが言えないのだろうかと思います。
たとえ甘やかされて育っても、社会へ出たら、自分できがつかなきゃですよね。
私が子供のころに、評論家大宅壮一氏が「一億総白痴化」という言葉を生み出しました。
対俗なテレビ番組ばかりが並ぶのを見て、こんなものを見ていたら、
人は考えることをしなくなる、想像力もなくなる…と。
いまやアホ番組ばかりではありませんが、さすがに先を読むチカラがおありだったのだと
今更のように思います。
テレビしかり教育しかり、様々なことが、日本人から謙虚とか礼節とか恥とか、
人として必要なことを水で薄めてしまった気がします。
あと30年50年経って「アレではいけなかったのだ」という世代が、
育ってくれるといいと思っています。
それはそれは、驚かれたことでしょう。
私ももうだいぶ前ですが、身近で似たようなことがありました。
幸い九死に一生を得ましたが、生死の境をさまよう子供に、
その人のお母様は「バカなんだから、オマエはほんとにバカだよ」と、
目がつぶれるほど泣いてすがったそうです。
おっしゃるとおり「紙一重」の部分は誰にでもあります。
イタズラのつもりではなくても、まいいか…とちょっと気を抜いたり、
ほんの手抜きのつもりが、大きなことにつながったり。
だからこそ「身を律する意識」はもたねばならないと思います。
社会に出るということは、まずソレだと思うのです。