ミクシの方ですが、「ケータイがなかった時代、大変だったこと」のランキング。
私最初に「たいへんだったこと」と読んだとたんに
「いや、別に大変ではなかったのだよ。それが当たり前だったから」と思いました。
便利なものが出てきて、それが浸透すると、なかったときのことは「できなかったこと」になる…。
それはしごく当たり前のことではありますが、それを「たいへんだった」と言うには、
ケータイは余りにもまだ最近過ぎて…。
私が最初にケータイを使ったのは、人より遅いです。
友人にやいのやいのと言われて、仕方ないから持つか…で持ったのがたぶん、16年くらい前。
お借りした画像ですが、真ん中のものでした。
そのころはまだ液晶画面もただ、数字がでるだけ、いちいち短いアンテナ引っ張り出したりしてました。
しばらくして「二つ折れ」が出ましたが、なんだかめんどくさいなぁと、
二台目は、文字の部分だけにフタができるタイプのものでした。
三台目にしてようやく二つ折れにしましたが、父は今でもそのタイプ…。
今は四台目ですが、外出の少ない私には、ケータイはあまり用がありません。
それでも、たまにはないと困る…なので手放す気はありませんが、スマホにするつもりはナシ。
ところで「ランキング」に戻りますが、ケータイがなくて「たいへんだったこと」の1位は、
「交際相手に電話をすると親がでること」…ははは、そんなこともありましたね、確かに。
母は、男の人から電話があると、メッチャ不機嫌になりましたっけ。
二番目は、待ち合わせに相手が来なかったとき。
これはねぇ、私も経験たーっぷりあります。学生時代の友人で、遅刻常習者がいまして、
待ち合わせをすると、必ず彼女だけが大幅に遅れる…。
横浜駅で待っていても来ないので、さすがに自宅に電話を入れたら、
お母様が出て「あ、今出ましたよ」…ラーメン屋の出前じゃないぞーっと、みんなで怒りましたっけ。
友人や恋人なら、とりあえずいっしょけんめ「待つ」でしたが、そうでもない相手の場合はどうしたか…。
駅の伝言板、というのを使いました。書き込んだ時間を書いておくと、何時間か経過したものから、
駅員さんが消していくわけです。待ちくたびれながらヒマに明かして読んでいると、
普通に「○時まで待ちました。夜電話ください」なんてのもあれば「いつまで待たせんだバカヤロー」なんてのも。
横浜駅あたりの伝言板は、いつもびっしりでしたねぇ。
三番目は、電車の遅延連絡。これは公衆電話が長蛇の列になるため。
これも経験ありましたね。まぁ会社などでは、どこかしらからニュースが入って、
○○線、人身事故で遅れてるって…なんて話がちゃんと流れてましたから、
駅での遅延証明だけ持っていけば、問題はありませんでしたけれど、
営業でお客に会うとか、会議があるとかだったら、ほんと、大変でしたよね。
四番め以降には、たとえば「公衆電話を掛けようとしたら10円玉もテレカもなかったとき…」
「たくさんの電話番号をメモしておかないといけなかった」
「公衆電話を探さなきゃならなかった」
この辺も、私もそうそう…です。100円玉の使える公衆電話もありましたけど、
あれはおつり出ませんからね。
電話番号だけ書きだしたミニミニのアドレス帳をいつも持ち歩いていたけれど、
なにかのときに「あっじゃ電話しよう」と思ったら、その人のだけが書いてなかったり…。
公衆電話は、繁華街や駅などには結構ありましたけれど、ちょっと住宅地などに入ると、
探すのが大変でした。
9番目が「乗り換えがわからないとき、調べられない」
10番目が「写真を撮るときは、カメラをもちあるかなければならない」
これって「ケータイがなかった時代」じゃなくて、ケータイを持ってなかったら、
或いは忘れたら…でしょう。
ケータイがなかった時代は、検索なんてもちろんできないから、わからなきゃ人に聞きましたよ。
持ち歩ける電話がないんだから、写真を撮りたいような外出のときは当然カメラ持っていきました。
今は撮れるから「たいへんだった」と言うのでしょうが、当時は何とも思ってませんでしたよ。
「なんでもできる」ということが当たり前になると、できないことがおかしく見える…。
確かにいろいろな道具は、最初に作られてから時間とともにかわっていきます。
使いにくいところを使いやすく、何かを付けて更によく…重量を軽くする、形をコンパクトにする、
燃費をよくする、作業効率をあげる…それはそれでいいことだと思いますが…。
あまりに便利すぎて、ないと生きていけない…なんてのは、どうかと思いますね。
便利は怠惰の元、ともいいます。
自分でなんとかする…というアタマも時には使わないとですし、
なんでも機械頼りでは、人とのコミュニケーションも減ってしまいます。
私は旅先では、できるだけ人に聞きます。
知らない人とほんのすこしだけ言葉を交わす、まさに一期一会の連続ですが、
人と言葉を交わすことができるのは、人として生きていくうえで欠かせないことです。
ケータイは便利だけれど、束縛されてはほんとにつまらないですね。
「道具」はただの「道具」、一昔前は、電車内でケータイを耳に当てて、
やたらお辞儀したりしている人を見たものです。
今や、画面に向かって指でスィースィーとやってる…
スマホの向こうにはたくさんの人がいるのかもしれませんが、
そこにいる誰ともつながっていない…なんだか奇妙な風景に見えます。
「便利なもの」って、「必要なもの」とは、限らないと時々思います。
お返事遅れてすみません。
なんだかものすごい速さで、いろんなことがかわっていくと
ちょっと不安になるのです。
なにか忘れているような、何かなくしてしまったような…。
流されすぎないようにと、ちょっと立ち止まるような気になるのは、
きっと年齢的なものもあるのかもです。
ほんとに「便利なものは、必要なものとは限らない」ですね。
駅の伝言版、懐かしいですね。
私はいまだに携帯を持っていないので、友人と待ち合わせするときはすごく細かく場所を聞いておくようにしています。
広い場所で別行動するときも「とりあえず〇時になったらいったんこの場所で落ちあおう」と決めるようにしています。
きっと友人には面倒かけているとは思いますが、一度も携帯を持ったことがない私にはいつものことなので。
ただ公衆電話が本当に少なくなってしまったので(以前あった場所から次々姿を消しているんです)それが困りますね(笑)
お返事遅れてすみません。
伝言板、たまに漫画が描いてあったりしましたっけ。
アタマから湯気立てて
怒ってるところとか…。
外出が極端に少ない私は、ケータイも
年中バッテリー切れで机のすみに置いたままです。
それでも、高齢の父が近くにいるので、
ほんとに「緊急用」です。
結局、連絡手段がないから、遅刻もしないようにきを付けるし、
改めて聞けないから、最初に「駅の○○のある左側」とか
細かく打ち合わせておくようになるんですよね。
今の人は、遅れたらケータイすりゃいいや、
みたいなルーズさが、当たり前になっているみたいな
そんな気がします。
待つ方も「遅れてくることがわかれば、いらつかないからいい」、
なのでしょうかねぇ。ふしぎですー。