「鏡掛け」です。たぶん振袖、全体に赤いですが、柄の下側と、うえの一箇所つなげた部分の様子を見ると、
黒地の花嫁振袖の、片袖ではないかと思います。
黒と赤と白、いいコントラストですね。たまたま着物をよく知る方がこれをご覧になって、
「今の黒と赤を使った振袖とは風格が違う。どれほど豪華な振袖だったか…」とおっしゃいました。
「古典」という柄の品格と、「使う黒」「あわせる赤」の明度も彩度も微妙に違うんですね。
金部分が変色始まってますが、少しもみすぼらしいとは思いません。
鶴の部分のアップ、いい絵だと思います。
私はこういう大きな鶴の柄を見ると「足」に眼がいきます。
鳥が飛ぶ時、たとえば鴨や白鳥のように足の短いものは、飛行機の車輪を収めるようにぴたっとおなかに縮め、
鶴やフラミンゴのように足の長いものは、全体が流線型に近くなるように爪先立ちの形でうしろに流します。
自然の作り出す姿って美しいなと思います。
でも鳥の足って、実物は近くで見ると姿の優美さと比べて、なーんか不細工なんですよね。シワシワゴツゴツで。
だからあのブコツな足を、いかに「飛ぶ形」の美しさでカバーしてるか…なーんて思って見ちゃうんです。
この鶴さん、きれいな足線です。
これは、先日いろいろ着物をいただいた中に入っていたものです。
実際お使いになっておられたのでしょう。汚れもあります。
長さは120センチ、かなり大きな鏡です。お嫁入り道具、りっぱだったんでしょうね。
私が結婚した30年前は、すでに「鏡台」はちょっとはやらなくなっていて、いわゆる「ドレッサー」でした。
三面鏡ってのもありましたね。
鏡というのは、実際には、身長の半分あれば全身を映すことができます。
そして和装にしろ洋装にしろ、鏡は低い位置にある方が、全身を映しやすいもの…。
つまり、スツールにお座りしておしろいパタパタはたくタイプのドレッサーってのは、実は使いにくいんですね。
私も結局は、ドレッサーがただのモノ乗せ台と化して、引越しのときに処分してしまいました。
さて、では鏡について…。
鏡の最初は当然「水鏡」、鏡は左右逆ではありますが、モノはそのまま真実を映しだします。
また、光に向けると反射して輝きます。科学で光の屈折、なんてことを習ってしまえば
フシギでもなんでもないことですが、そういうことがわからない大昔は、
はっきりと真実を映し出す「鏡」は、フシギだったでしょうね。
以前面白い記述を読んだことがありますが、動物に鏡を見せると、まず「敵」もしくは「仲間」と思う。
そこから先が問題なのだそうです。つまりいつまでも「自分以外のもの」としか見えない動物が多いわけですが、
その中でチンパンジーは、やがてそれを「自分のこと」だと認識できるのだそうです。
そこが「知恵」の分かれ目ってことらしいですね。
人間も、まだサルに近い時代は、水に映った自分に驚いたのかもしれません。
さて、そこから進化して自己認識できたとき、「映るもの」には、フシギな力があると思ったことでしょう。
やがて「水鏡」を卒業して「物質」によって鏡を作るようになったわけですが、まずは「石」、
その場合は地が濃い色でないと映りませんから、黒曜石が使われたそうです。
黒曜石は、成分がガラスと似ています。割るとツルンとした面が出ます。
薄く割れることから、刃物代わりにも使われましたね。
平らに割れば当然鏡のように使えたわけです。その後金属が使われるようになり、
日本に伝わったのは弥生時代といわれていますが、そのころの「銅鏡」が発掘されたりしています。
その後は銅、銅と錫の合金などですが、鏡がよりよく映るようになったとき、
そこには自分も、また自分のうしろにある景色も周りの道具も、全部ありのままに遠近感を持って映る…
それなのに鏡の裏側にはなにもない…そこから、鏡の面を境に、あちらにも世界がある…とする考え方も出てきました。
それゆえ、鏡はあくまで「宝物」であり、お化粧するより「祭祀」に使われるなど、神秘的なモノとして扱われたわけです。
今でも神社には「神鏡」がありますね。
ちなみに江戸時代までは「銅と錫」の合金の鏡が主だったのですが、使っているうちに曇ってくるそうで。
江戸には「鏡磨き」という職業もありました。最近、オレンジの皮で鏡を磨くといい…
というような「豆知識」を耳にしますが、あれは皮に含まれる「クエン酸」が汚れ落としになるからです。
江戸時代は「ざくろ」が一番きれいになる…と、使われたそうです。
思いっきり話がそれますが、江戸時代の「湯や」の浴室への入り口は「ざくろ口」と呼ばれました。
湯気や暖気を逃がさないために、入り口が低くなっていたのですが、かがんで入らないと頭をぶつける。
そこで「かがんで入る…かがみいる…鏡でいる(入用)」から「ざくろ口」になったと…。はい脱線でした。
さて、やがて鏡は「祀るもの」からを実用的な道具としても使うようになっていったわけですが、
日本にガラス製の鏡が入ったのは安土桃山のころ。かのフランシスコ・ザビエルが伝えたといわれています。
ヨーロッパでは、すでに「ガラス」の製品が使われていたんですね。
ただし、このころのガラスは滑らかでまっすぐ、というのが難しく、大きなものはできなかったそうです。
実際に今のような大きな鏡が作られるようになったのは、やはり明治に入ってから。
それでも平らなガラスというのは難しかったんですね。
今でも古民家に残る「大正時代のガラス戸」など、わずかに波打っていて、外の景色がゆらゆらと見えます。
あれは風情がありますね。
ガラスの鏡の場合には、裏に金属を塗りつける方法が使われるわけですが、昔は水銀なども使われました。
現在のものは銀膜をつけ、保護のための銅メッキをするなど、はがれたりしないように処理をします。
明治大正のころは、大きな姿見は、もちろんぜいたく品だったことでしょうね。
やがて「鏡台」という形になり、私の年代のものには眼になじんだ、長方形の鏡台が、
当たり前の家財道具として使われるようになったわけです。
これは母から譲られた「おままごと」の鏡台(左)。こんなでしたねぇ。
タバコと比べてみると、ほんと「豆鏡台」です。
母の鏡台の形は、ハッキリ覚えていないのですが、いつも必ず「鏡掛け」がかかっていました。
ガタピシする引き出しを開けると、ふわんとおしろいの匂いがしましたっけ。
ヘアピンの小さな箱や、つげの櫛、めったに使わない珊瑚のかんざしの入った箱、資生堂の口紅…
深いほうの引き出しには、いつも薄緑色のビンにはいった化粧水がありました。それと「髪油」。
いたずらするわけではなかったけれど、そーっとあけて覗くと、なぜかドキドキしたものです。
実は「鏡掛け」というのは、今の鏡台ができるまでは「掛ける布」のことではなく、
鏡そのものを載せる台のことでした。あのお雛さまのお道具にある丸い鏡を載せる台のことです。
ですから、こだわって言うなら、今のカバーは「鏡台掛け」ということになります。
実家には、同じように花嫁衣裳の片袖で作った「鏡台掛け」があります。
白地に鶴の柄、金銀の刺繍が豪華です。母は結婚したとき、時節柄ちゃんと花嫁衣裳を着ていませんでしたから、
憧れがあったのでしょう。知り合いから貸衣装の内掛けを譲ってもらい、大切にしていました。
その袖で作ったわけで、予定ではほかの部分も何かにするようでしたが、結局そのままになりました。
あの残り、どっかにあるわ…。
私は今、鏡台を持っていません。毎朝見るのは洗面所の鏡。実はとてつもなくデカイ姿見はあるのですが、
あまりに大きすぎて、今は納戸に入れっぱなし。鏡自体は薄くて長いだけですが、それを支える「台(脚)」のでかいこと…。
以前のマンションでは部屋の片隅においていましたが、掃除のたびに、この台をけっ飛ばす、突っかかる…。
ここへきてからはしまいこんだまま…今は着物を着る時はほとんど鏡は使いませんが、仕上げは玄関の姿見。
下足入れの端が上から下までの鏡になっています。でも昔風の「鏡台」がほしいなぁとずっと思っています。
そしたらこの鏡掛け、ちょっと長さを縮めて、使いたいですねぇ。
もう何時間見ていても飽きないほど豪奢な振袖だったんでしょうね。
昔オークションで落とした昼夜帯が届くと
あまりにも状態が良くなく解いて洗ってアイロンをかけまして
着付けをする時の姿見の掛け物にしています。
大きな鏡がそのままむき出しの状態ですと何となく落ち着かないんですよネ。
夜中にたまたま見てしまった自分の姿が老婆だったり、ヘンな物が映ってもコワイですし笑。
でした。
詳しいいわれは知りませんが、嫁入りの
荷物の中で、夫になる人が一番先に鏡を
家の中に入れてくれるんですからやはり
神聖なものなんですね。
最近は荷だしをするのも見かけませんね。
和室に鏡台、こういう鏡台掛けが掛かって
いると風情があっていいものですよね。
どんな振袖だったのか、全体を見たかったですねぇ。
鏡はむき出しでおくものではないと、
母に言われたことがあります。
まぁ壁に貼り付けてあるのは別としてですが、
やはりなんか「魔力」みたいなものを感じたりしますわ。
私の姿見は反幅では全然たりなかったので、わざわざ生地を買ってきてつくりましたが、
色が濃くて、圧迫感ありましたわー。
なんでも大きさはほどほどがいいですね。
やはりドレッサーでしたか。
今になったら、普通の鏡台がよかったなぁなんて
思ったりしています。
「夫になる人が一番先に運び入れる」って、初めて知りました。
なんかとってもすてきな風習ですね。
やはり「特別」なもの、という気がしますね。
そういえば最近は「嫁入り道具」のお披露目もないし、運びだしもない…。
お店で買って、そのまま新居に別々に運送しちゃうんですかねぇ。
まぁ確かに箪笥から電化製品から、全部運びだしまで
自宅に置いておくことも、今の時代はちと無理ですかね。
でもやはりもう処分していまいありません。
殆ど使わなかったからもったいない事でした。
鏡台掛けには時々素敵な物がありますね。
先日ぼかしが素敵な唐子のものを手に入れたので簡単な手提げにしてみました。
振袖の鏡台掛けーーー素晴らしいですね~~
あのドレッサーというのは、ほんとに単なる「化粧鏡」で、ムダに大きいですよね。
昔の人は袖一枚でも上手に使うなぁと、感心します。
唐子の手提げ、ステキでしょうね。この前のキーホルダーとか、バッグとか…。
持って歩きたいと思いつつ、実際は帆布の買い物袋かついで走ってますー。