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写真は、手に入れたばかりの「端縫い(はぬい)」です。
これは襦袢ではありません、「着物」です。
全体に薄く綿が入り、裾にはつぶれてしまっていますが
「ふき綿」がたっぷり入っています。わずかな寸法のたりない部分も、
ほんの少しのハギレをはさみ、みごとに左右対称にできています。
全部絹、藍染柄の部分も絹です。比較的ゆとりのある家の女性のものでしょう。
というわけで、今日は「はぬい」のお話です。
端縫い、と書いて洋裁だと「はしぬい」、着物だと「はぬい」と読みます。
縫い物をするとき、縫い代の裁ちきりの部分、そのままだとほつれてくるので
ジグザグミシンかけたり、ちょっと折り返してはしを縫ったり・・。
これが「はし縫い」、いっぽう「はぬい」の方は、端ぎれを縫い合わせる、
という意味ですが、着物の場合伸子張りをするとき、解いた着物を並べて、
突合せにしてつなぐことも「はぬい」と言います。
「端縫い状態」といえば、解いた着物が全部きれいにつながって、
一反の反物にもどっている状態です。
布やその残りを大事にするということは、洋の東西を問わず
昔から女のシゴトであり、伝承であったと思います。
アメリカンパッチワークも端縫いも、元は同じ「それだけではただのハギレだが
それをつなげれば大きなものが作れる」という知恵と技です。
祖国イギリスから新天地を目指した彼の国の人々、
荒野の中で先住民や獣と戦いながら、丸太で家を建て、井戸を掘り、
畑を作り牛馬を飼う・・、そういう暮らしの中では布も服も
たいへん貴重であったと思います。
着物と同じように繰り回しもしたでしょうし、
残ったものも決して捨てたりはしなかったはず。
ただ、洋裁の場合は解いた服も、また裁ち落とした残り布も、
さまざまな形になります。曲線を含む複雑な多角形の布、
おそらく最初はただつないでいたのでしょうが、やがてカーブはカーブとして
三角は三角として、形を組み合わせればムダがない・・と考え、
バスケットとかログハウスとかペツレヘムの星とか・・
独特のパターンが生まれていったのだと思います。
一方日本の着物の場合は、どこまでいっても全て「四角」、
着物の元の形も全て四角の集まり・・そんなところから、
ハギレをあわせてまた着物を作る・・ということも可能でした。
着物において「端縫い」は、単なるつぎばぎの着物・・ではなく、
時には「新しい着物」としての意味も持つものもありました。
たとえば子供が生まれると、あちこちからはぎれをもらい、
それを100枚ためてつないで産着を作る、これは「百徳着物」といって
縁起のよいものとされました。母親は友人知人親戚中から、
一枚ずつハギレをもらってそれをつなぎ合わせ、生まれた子供に着せる
一つ身の着物を縫いました。呼び名は地方地域によって違うようですが、
親の思いは、場所も時代も問わないのですね。
また、子供のものばかりでなく大人のものも、もちろんはぎれをつないで
作られました。沢山のハギレをつないで胴部分にし、袖だけは一枚布をつけた襦袢
これなどはうそつき襦袢の元祖ですね。絹に限らず、木綿もモスリンも、
とにかく布として使える部分はみんなつないで作ってあるもの、
写真をみたことがあるだけですが、どれだけの手間がかかったかと思います。
東北の西馬音内(にしもない)の「端縫い」は、祭りの晴れ着として有名です。
祭り衣装として着るようになったのは、まだ歴史が浅いそうですが、
端縫い自体は、昔から連綿と伝わった女の技・・でした。
ただ残りぎれをつないだというだけでなく、左右対称に、彩りよく、
それはもう実に美しい見事な着物です。昔から伝わる端縫いは、
もう着られないほどよわったものもあるそうですが、
家の宝として、どこも大切に保管しているそうです。
端縫いの似合う踊り手になる・・というのが、土地の娘の願いだとか・・。
形や色を考えて美しく作られたもの、ただひたすらつないでいったもの、
今に残るさまざまな端縫いは、ただもったいないという思いだけでなく、
子供の健康を祈ったり、娘の身を飾るものであったり、
家族を寒さから守るものであったり、いずれにしても、
当時の女たちの思いのこもった「作品」だと思います。
端縫いには小さなものもあります。
私が勤めていた頃、ある日鉄道のストライキのニュースが流れ、
翌日は確実に電車は止まることになりました。
そういうときでもゼッタイ止まらないのが「京浜急行」・・でして、
私は、京急沿線に住む友達のところに泊めてもらうことにしました。
泊りのしたくをする私のところに、母がなにやら紙袋にはいったものを持ってきて
「これな、忘れんときや」と差し出しました。何だと思います?
「おコメ」でした。「イマドキ・・」とあきれる私に、
「なにゆーてんねん、遊びにおよばれして行くのんとちゃうねんで、
『食い扶持』持っていくのは当たり前やろ」・・。
持っていって友人に大笑いされたのは言うまでもありません。
「でも、あんたのおかあさんて、きちんとした人なんだね」と、
そうもいってもらえましたけれど・・。その「おコメ」を持たせるとき、
母は「今はもうコメ袋がないからビニールやけど」と言いました。
むか~しウチにあったんです「米袋」、なんだかいろいろなハギレの寄せ集め、
あのときでもずいぶん汚かったですから、もうないでしょうねぇ。
その後、本でいくつか見たことがありますが、
ほんとに残りぎれをつなぎ合わせたものから、かわいい布ばかりをつないだり、
押し絵がしてあったり、縫い取り刺繍がしてあったりの凝ったものまで・・。
おコメと言うのは、昔は「お金」のかわりにもなったものです。
地域でのお付き合いや冠婚葬祭において、米のやりとりをするのは
当たり前のことでした。母の姉が嫁いで初めて里帰りした折、帰りには
祖母は米袋に米を入れて持たせたとか・・そういうしきたりだったのですね。
またお寺に収めたり、托鉢の僧にも、渡したそうです。
この米袋もまた、姑、大姑から受け継がれてきたものを大事に使い、
娘が嫁に行くときには、いくつも縫って持たせたそうです。
端縫いの腕のみせどころだったことでしょうね。
洋服のリフォームはちょっと面倒ですけれど、まっすぐ四角にとれるところ、
そこだけ切り取ってつなげても、りっぱな端縫いです。
もったいない・・だけではなく、それを使う人、身に着ける人の
健康やシアワセを願いながら針を進めるということは、
モノに命を与える作業であったとも思います。
端縫いとは違うのですが、ふとおもいついた「一針にこめた思い」の一品。
お若いかたはご存知ないかもしれませんが、
戦争中「千人針」というものが、たくさん作られました。
これは戦地へ赴く夫や息子のために、
女たちが必死の思いをこめて作ったものです。
ただし、これは一人ではできません。
さらしの布に赤い糸で1000個の針目、女性ばかり、
一人一針ずつ縫ってもらい、一目ずつしっかり結びとめてもらうのです。
まん丸日の丸の中を埋めてもらったり、トラの絵にしたり・・。
トラはもちろん「千里を行って千里を帰る」ということから、
必ずの生還を祈念してのことです。寅年生まれの女性は、年の数だけ
縫い玉が作れるというので、家に何枚も持ち込まれたそうです。
もちろん、近所周りの女性だけでは数がたりません。
女性たちは通りに立って、見ず知らずの女性に声をかけ、
頼んで縫いとめてもらいました。また声を掛けられた人も、
他人事ではない・・と、みな協力してくれたそうです。
いつ、誰が始めたことかは知りませんが「針仕事」がいつも身近であった
女性たちが「自分たちにできること」として針目、結び目に願いを託し、
五銭玉(四銭→死線を越える)、十銭玉(九銭→苦戦を越える)を
縫い付けて、夫や息子に持たせたのです。
そういうものを作らなくていい今の時代、平和を享受するかわりに、
「思いというもの」「もったいないこと」について考えたいものです。
ちょうど端縫いの特集でした。
スゴイですね!
お米を持参と言えば、
私の記憶がないほど昔(50年以上前)
永平寺に家族旅行に行く時
お米を持って行ったそうです。
お米専用の端縫いの袋があったんですね。
私も作ってみようかしら・・・
そして、千人針は、
現代での署名運動を思い出しますね。
「銀花」、私も出ると立ち読みするのですが、
しばらくロクにゆっくり買い物もいってなくて
今、あわててネットでみたらほんと「端縫い特集!」
写真の端縫い着物が、昨日届いたので、
これについて書くかなぁ・・なんて思ったんです。
銀花、買いにいこっと。
お米袋は、オークションでもときどきでますが、
みんな年季はいってます。
何か飾りのついたようなのを探しているのですが
そういうのはなかなかでないし、
出るとたかくなるんですよぉ。
私も寅年なので今なら年の数だけ沢山の千人針(縫い玉)が
出来ますが、この繰り返しだけはしたくありませんね。
時間が掛かるのに、左右対称になるよう
生地を縫い合わせて一枚の着物にするのは
相当時間を要する大変な作業ですね。
実家では、しきょう参りに行く時一升のお米
が入る袋を縫ってお米を入れてお寺へお参りに
行きます。(しきょう)ってどんな漢字か
わかりませんが・・・
私も・・・同じです。年の数だけやったら
その分どこかの山の木が増えるとか、
Co2がへるとかっていうんなら、
毎日でも縫いとめますけどねぇ・・。
とりあえず、まずは「戦」と言う言葉、
この世から消えてもらいたいものです。
陽花様
昔の人って根気があったんだなぁと驚くばかりです。
お米袋、実際使われていたんですね。
現物があったら、ぜひとっておいてください。
貴重な資料ですし。
お気に入りに入っていたのにちょっと目を離した隙に拙宅の端縫いが豪華に出演いたしておりました。
箪笥の奥に百年以上眠っていた御着物がこんなに大切にされ日の目を見ることができたなんて光栄です。
因みに少し補足をさせていただけますと、素材は錦紗縮緬です。
『西馬音内盆踊り』に着る衣装はもっとお袖が短いのでこれは生粋の由緒正しい端縫いですね。きっと・・・。
せっかくですので手持ちの『江戸縮緬』や『端縫い』を随時更新します。
ぜひご覧下さい。
持ってるだけじゃ宝の持ち腐れ!!ですものね。
いらっしゃいませー。
ほんとにきれいな着物です。
西馬音内の着物、一度テレビで見たことがありますが
沢山の小さなはぎれ、よくもまぁあれだけ
つないだものだと思うくらい、すごい手技ですねぇ。
江戸ちりや端縫い、楽しみにしています!