天皇陛下、皇后陛下にとって、今年が最後の「慰霊祭」。
礼服の陛下も、色喪の皇后さまも、本当にお年を召されて、足元もそろりそろりとお帰りでした。
長い年月、誰よりも戦争について考えてこられたお二方です。
お疲れ様でございましたと、おもわず呟きました。
昨年の夏は、梅雨の終わりがはっきりせず、雨の多い夏だったと記憶しています。
今年は正反対で、なにも去年の分を今年に回さなくても…と言いたくなるほどの酷暑になりました。
暑さにめげず、鎮魂の席に向かう人もいれば、お墓詣りの人もいれば…の一日。
我が家の身内には、幸いにも戦死者も戦災による犠牲者もおりません。
横浜の父方の実家は大空襲で大変だったようですが、みなそれなりに戦後揃って前に進むことができました。
天災もそうですが、人とは本当に強いものだと思います。
確かに、家を流されたり家族に犠牲が出たりと、とてつもない悲しみを背負って、
もう立ち直れないという方も、中にはいらっしゃると思います。
それでも「生きていかねば」と、一日一日をすごしていかれます。
戦争も天災も経験していない私は、せめて考えるくらいは…と思っています。
過去の人たちが教えてくれること、遺してくれたことを、ちゃんと受け止めなければと…。
母の古い銘仙があります。洗い張りして畳んである状態。
詳しくは聞きませんでしたが、戦時中、着物はモンペにしなさい…と言うご時世で、
みんな手持ちの着物をモンペにしていた…その時期に着ていた着物です。
銘仙ならなおのことモンペに最適であったでしょうに、母はこの着物だけは解かなかったようでした。
数少ない着物の中の、お気に入りの物だったようです。
色柄から行ったら、当然私が10代20代に着られるるような赤いものです。
イナカから送ってくる古着や安いペラペラの反物で、いろいろ私の着物も縫ってくれましたが、
これだけはずっと着物のままでしまわれ、私が嫁に出てから洗い張りをしたようでした。
母にとっては、一番好きだった着物、というだけではなく、いろんな思いが詰まっていたのでしょう。
いやな記憶も、楽しかったことも、つらい日々も、穏やかになった暮らしも…。
戦争を越えてきた人は、なにかしらそういうものを持っているのかもしれないと思います。
思い出したくない、できれば見たくない…そう思いながらも捨てることもできない。
それはとりもなおさず、「それもまた自分の人生の一部だから」ではないかと思うのです。
いろいろいやな事件やひどい天災も起きてはいますが、
少なくとも今の私たちは、爆撃を気にしたり、操作された情報に振り回されたりする暮らしではありません。
人間は自分が物体ですから、カタチのないものは、納得しづらかったり理解しにくかったりします。
そうなると想像するよりありません。
自分の知らない時代を、大変な思いをして生きてきた人たちの言葉を、遺されたものを
きちんと聞かなければ、見なければ…と思います。
想像することしかできなかったとしても、戦争、原爆、その後の何もない暮らし、
帰ってこない家族への思い、そんな時間を生ききってきた人の時代のことを、しっかり想像して、
100年先200年先の子供たちへ、伝わっていくようにする…
それが今を生きている私たちの「できること」だと思っています。
頼りの子供が戦死したり、家族皆が亡くなったり…。
長い年月をひっそりと生きてきた人もたくさんいると思います。
母の小学校は、80代まで長くクラス会をしていましたが、
集合場所はお寺、まずは同級生で戦死した人たちの
供養をしてからの会食でした。
いつまでも年を取らない同級生の写真を見るのは
切ないことだ…と言ってましたっけ。
平成も終わります。私も昭和と平成を生きてきました…
なんてことを言うようになりました。
いくつ年号を経験したとしても、
ずっと平和でいてほしいと思います。
半分締めているような古臭い店でたまにどうしても必要なものがある時に買うぐらいでしたが、店から続く茶の間に仏壇が見えて、若い兵隊さんの写真が飾ってあって、ああ息子さんが戦死したんだなあと気が付きました。
なんだか時間が止まったようなお二人の生活ぶりが子供心に不思議な感覚を呼び起こして、戦争とはこういうものなのかなあと思ったものでした。
平成最後の終戦記念日ですね。
私たちの母の時代は、ほんとにかわいそうですよね。
母は当時18歳くらいで、徴用されるのがいやで、
仕事についていたそうです。
好きなおしゃれもできず、着物も着られず…。
農家だったので、ひもじい思いをしたことはなかったそうですが、
麦めしと漬物、そんな毎日だったと。
人が簡単に死んでいく日々って、慣れちゃいけませんよね。
「暑いねぇ」と、ブツブツ文句言って、空を見上げられるのは、
とても大切な幸せなことなのだと思っています。
大事にしなくちゃですよね。